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 伝統共同体(ムラ)は解体したと言われて久しい。それはもう50年も昔の話題である。しかしその解体によって私たちは何を失ったのか、その何が問題なのかが問われることは無かった。なぜとなればその解体を誰も問題とは考えていなかったからである。当のムラの人々にとってそれは“豊かさ”“便利さ”“明るさ”と引き換えのものであったから当然である。共同体とは言ってみれば“しばり”であり“重荷”でもあるから、それ無しで暮らしていければそれに越したことはない。ムラは風通しも良くなり暮らしやすくなったのである。むろん今もムラはあるし祭りもある。しかしそれは地縁、血縁でつながった人たちの近所付き合いに近いもので、すでに彼らは個々の暮らしと人生を生きていて基本的には都市民と変わらない。若い人は特にそうだろう。

 他方、都市の人たち、戦後の科学と進歩と経済発展を担った人たちにとっては共同体の解体は当然のことであった。ムラは進歩の反対語であり、科学の反対語であり、民主の反対語であり、経済発展の反対語であったから。この点に関しては右も左も同じで、むしろ左(マルクス主義陣営)の方がより積極的だったかもしれない。マルクス主義歴史観は進歩史観であり、封建制の名残りであるムラ共同体の解体なくして市民社会も社会主義もない訳だから。

 要するに、ムラ共同体を律していた価値や人生観、世界観は戦後精神と真逆だったのであり、それ故戦後精神の中に生きた人にはそれは“見えなかった”ということなのであろう。共同体の解体とは何か、それによって私たちは何を失ったのかという問いは立てようがなかったのである。戦後の歴史は「戦前など無かったように」進んできたが、ここでも同じ態度が繰り返されている。戦後はムラ共同体など単に全否定すべきもの、なかったものとして私たちは生きてきた。しかし一般的な歴史理解によれば中世の惣村以来、日本社会の基盤であり続けた共同体が解体したとあらばそれは大きな歴史の区切りであり、その意味を問うことは実に重大な問題であるはずなのだ。

 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」で内山節氏が言う「1965年頃の人間と自然との関係の変容、ないし革命」はこのムラ共同体の解体と密接に関連しているのは容易に推察がつく。ムラは「農」という営みや日々の暮らしを通して、はたまた精神世界においてもその土地の生き物や自然、山や川と深く結びついていた。共同体は人間だけでなく、それら(彼ら)を含めたものとして構成されていた。そのような意味で、共同体は人と自然とのコミュニケーション装置、あるいは人と自然の共生装置だということもできよう。“風土”といわれるものが人間の営みとその土地の自然との合作だということからいえば共同体とは“生きられた風土”だと言ってもあながち間違いではない気がする。その共同体が歴史からフェイドアウトしたということは要するに私たちが「暮らし」という身体性のレベルでの自然とのコミュニケーション回路を失った、あるいは社会の土台から人間と自然の共生装置が失われたということになる。

 この問題はムラに住む人よりむしろ都会に住む人にとって切実となる。ムラの人はそうは言っても農業も自然も身近である分自覚症状を持ちにくい。かって日本の田舎はどこへ行ってもムラであり共同体であった。日本近代を牽引したのは工業であり都市であったとはいえ、その発展を支えたのはそのムラであった。戦前から戦後の一時期まで日本社会の土台はムラであり、そこから食糧、エネルギー、様々な物資、有能な人材、労働力、知識や技能、ありとあらゆる富(資源)を吸収し続けることでその発展は可能になっていた。そして忘れてはならないのは都市の暮らしもそのような形でムラとつながり自然とつながっていたということである。日常の中に田舎の手触り、自然の息吹が普通に感じられた。都市の暮らしもまた“根っこ”があったのである。

 その共同体が戦後の燃料革命によって、人材の流出によって、戦後教育によって、テレビの普及によって、モータリゼーションの浸透によって、農業の“近代化”によって、つまりは戦後の商品経済が田舎の末端まで達したことによって解体してしまった。そして都市の暮らしから生き物や自然の手触りや息吹が失われ、人々は“裸の個”として生きざるを得なくなった。都市が自然から浮遊するようになったのである。1965年の革命にはそのようなことも含まれている。 S


# by kurashilabo | 2015-01-17 09:47 | 鈴木ふみきのコラム

2015年もよろしくお願いいたします_c0177665_15422846.jpg
今年は新たに女性スタッフが1名増えました。ますます面白くなるやさと農場から、皆さんに「農のある暮らしの豊かさ」をお届けできたらと思います。

お野菜セットのお試しや定期注文や、個人、団体の「農場暮らしの体験」など、いつでも受け付けております。お気軽にご相談くださいませ。



# by kurashilabo | 2015-01-12 15:45 | お知らせ

 第4に集団としての意思決定の方法が似ていた。たまごの会は地区世話人が十数軒、多いところで50軒程度の会員を束ね、そのような地区が20弱前後連合したものである。各地区世話人に農場スタッフが加わる形で世話人会を構成し、この世話人会が会として唯一の意志決定の場であり、かつ執行機関であった。たまごの会には規約もなく、代表も置かず会員総会のようなものもなく、世話人会での申し合わせがすべてであった。世話人もいわゆる地区代表ではなく、地区を立ち上げ会員を束ねるいわば“領主”であり、地区の人々の意向を常に勘案してはいるけれども最終決定は世話人個人の意志と責任で為された(実際には地区により事情は様々)。このようであったからたまごの会はいわゆる民主的な「組織」ではなく意を決した個人の連合、グループというべきものである。初期たまごの会の行動力や勢い、面白さはこの「個人」を原理とする世話人会という運営方法を抜きには語れない。

 世話人会による運営にはいくつか特筆すべきことがあった。まず多数決という方法はとりえなかった。一般に多数決は少数の意見を排除し多数に従わせるための強制力であって、多数の人々を数として動かしていく組織の論理であり「政治」である。しかしたまごの会はそもそも組織ではなく個人の連合であり運動体であったから、その内のたとえ1人でさえ排除する正当性を他の誰ももちえなかった。またたまごの会では「何が正しいかではなく何をやりたいかを語れ」としばしば言われた。これもまた「正しさ」は必ず「正しくないもの」を作り出し排除する強制力として機能するからである。運動は「~すべき」という正しさの観念(イデオロギー)ではなく、それぞれ固有の「何をやりたいか」「何がおもしろいか」という全身体的欲求に駆動されなければならない。ここにはそういう洞察があるだろう。

 しかしこのような前提で運営するにはメンバーそれぞれに“与党的態度”が求められることになる。組織にはしばしば“野党反対派”が生まれる。相手を批判することに自らの存在理由を見出す一群の人々である。しかし野党あるいは反対派というのはそこに権力構造があり、多数決や「正しさ」で「政治」が動いていく時、ある場面で一定の有効性をもつだけであり、その前提のないところにかようなスタイルが持ち込まれると運営は成り立たなくなる。反対を言いつのる人が1人でもいれば、排除の論理(多数決)をもたない以上、運営はデッドロックに乗り上げてしまうのである。同じことだが実行意志を伴った「何をやりたいか」をもたない人々が集まってもこの運営は成り立たなくなる。どこかの事務局から「方針」なるものが提起されて、その是非を議論していればいい訳ではないから。

 このようにみてくると世話人会方式というのは多数決民主主義的な組織運営の批判として構想されていることがわかる。実際、この点に関しては初期たまごの会は相当に意識的であったと思う。そしてそこには「正しさ」の観念や「組織」がもらした数えきれない悲惨の記憶が反映していることもまた容易に推察がつくだろう。

 しかしこのようなスタイルで運営するのは実に根気のいることであった。全員の納得というのはテーマが重大であればそれだけ困難であり、同じテーマで繰り返し会議をもたなければならかった。(全員賛成とまではいかなくとも積極的に反対の人はいないというところまでもっていくことでさえ)またこのスタイルは運動を立ち上げる時には有効に機能するが、それだけでは運動体を長期的に維持していくことはできない。組織運営という普通のやり方も必要になってくる。実際のところ、世話人会方式が有効に機能したのは初期だけではなかろうか。

 さてこのような意志決定のスタイルは近代的な組織の「会議」というよりむしろかってのムラの「寄合い」に近いのではなかろうか。寄合いはお互いに顔見知った共同体の運営の方法で、そこには「多数決」も「正しさ」もなく、“やる必要のあることのすり合わせ”があるだけである。もっと積極的な言い方をすれば一揆を組む時のやり方でもあるだろう。一揆は意を決した「個人」の横並びの連合であり、正しさではなく実現目標の共有と行動の調整があるだけだった。一揆は組織がやるものではないし、組織にはできないのである。共同体の意志決定というのは結局のところこのような形に落ち着くのであろうか。面白いところである。 S


# by kurashilabo | 2015-01-10 09:33 | 鈴木ふみきのコラム

 このように農場は神社に似た機能を果たしていたが、その中心テーマである御神体と神話、マツリはさすがにもちえなかった。これについては二つのことをコメントしておきたい。

 ひとつは農業は神観念を内在させなければ社会的にも自分自身にとっても危険なものになりかねないということである。お米や肉は道端に落ちている訳ではない。人は岩魚やリスのように森の中で静かに暮らしている訳でもない。木を切り倒して土をはぎ、水を引いて田を作り、種を播いてそれを育て、一気に刈り取る。イノシシを捕まえ飼い慣らして豚と為し、餌を食わしてこれを育て、大きくなったところを殺して肉をとる。いずれも荒々しい人為であり、農業はそのような仕方で自然あるいは野生といわれるものと触れ合い、たわむれ、そこから富を引き出してくる。しかしこの合理精神と人間中心の営みは人の精神にある種の負債感を生み出し心に堆積させていく。農業が原理的にはらんでいるこの問題は古来人を悩ましてきた。これは相手が動物の場合とりわけ問題になる。原理的には同じでも作物や野菜の場合は“命を奪い取る”という負債感は少なく、むしろ“もらう、恵み”という感覚をもつことができる。古来、人はそこはあまり悩まなかった。しかし相手が動物となるとそうはいかない。自分が大事に育てた動物を使役したり殺して肉を食うということは強い負債感なしにはできない。そもそも人は平常心でルーティンワークのように動物を殺すことができないようにできてるし(そこがフリーでは仲間殺しが多発し集団が維持できない。このタブーすなわちあの“いやな感じ”が解除されるのは狩猟や祝祭空間というアドレナリンが沢山分泌される時だけ)、加えて「飼う」という行為は意味的には「子育て」と同じなので「自分が飼っている動物を殺す」というのは「子殺し」のタブーにも触れることになるからである。「畜産」では“もらう、恵み”という本質はこの負債感のうしろに隠れてしまう。「自然の中に人間を超越した存在を認め、それを敬い、人間のために命を落としたモノ(霊)をマツル」ことでこの負債感を帳消しにし同時に恵みに感謝する、これがこの列島に住む人たちが選択してきた方法である。「神を畏れる」ということである。同時に人為(文化)の対極に「山」を“あるがまま”の自然としてあがめていた。人々はこのような形で狩猟採集に替わる「農業という文化」を築いてきたのである。それはまた人間中心主義が暴走する歯止めにもなっていただろう。農業はその内に神観念をそなえていなければ自然を食い荒らすだけでなく、自分をも頽落させてしまうかもしれない危険をはらんだ営みなのだ。

 いまひとつはそのような神観念を迷妄として歴史のクズカゴに遺棄してきたのは他ならぬ私たちだということである。私たちを作ってきた“戦後精神”は徹底して人間中心主義であり、科学と進歩と経済発展を至上価値としてきた。たまごの会も豊かになった社会の産物であり、高等教育を受けた人々の開明精神が生んだものであったから当然それに加担していた。それ故、自然の中の神という意識は自らの戦後精神の枠組みを問い直すという思想的作業を伴わざるをえない。昔話しとしてならばともかく、アクチュアルな課題としてはなかなか困難なことなのである。

 時代的な制約という意味で無理もないことではあったがたまごの会はこれについてはテーマ化することはできなかった。話題にさえでていなかった。しかし近代農業の暴走は神観念の遺棄と共同体の解体という「地慣らし」があってはじめて可能になったことであるから本当はこの問題を避けて通ることはできなかったはずなのだ。「農」を語るのであればいつかは向い合わねばならない課題として手付かずのまま今に残されている。

 神話といいマツリといいどちらにせよ途方もないことではある。それは伝統的共同体に特有のものであり、その解体のあとはもはや民俗学の中にしか存在しない。そもそも私たちが使うことば、すなわち近代精神はその解体の中から生まれてきたものであるからこのようなことばでは原理的にこのテーマには近づけない道理なのだ。それを承知のうえで農場ではここ2年ほど、“鎮魂祭”なるものを密かに(?)催している。アイヌのイヨマンテ(熊祭り)をモデルに殺した豚やトリの魂をあの世に送りその卵や肉が私たちにもたらされたことに感謝するのである。パロディにすぎないとはいえ心の重荷が少し軽くなるから不思議である。神観念は消えてしまったのではなく、ことばや振る舞いが与えられないのでただ眠っているだけなのであろうか。 S


# by kurashilabo | 2015-01-03 09:29 | 鈴木ふみきのコラム

 第3に農場が伝統共同体における「神社」に似た機能をもっていたということである。ムラ(共同体)には必ず神社があり祭りがある。あまりにあたりまえすぎて私たちはそのことの意味を十分には理解していない。神社とはいうなれば自然という神々に通じるための装置であり、神々の降りてくる場所である。神前では毎年神楽が舞われ、そこではムラの創成神話や伝説が物語られた。神がムラの中を行幸し、ミコシが担がれた。それが祭りだ。神社はそこにあるというだけで、人間を超越する何かが存在する、奥深い自然の中に畏敬すべき何物かが存在するということを示していたし、「氏子」として祭りに参加するということは、個を越えた共同体の物語に同化していくということであった。神社(神話、マツリ)がムラをして共同体たらしめているといえるだろう。このように人々が神社の「氏子」になるという形で共同体は立ち上がってくるのである。それゆえ神社は共同体の核であり、最も神聖にして公共の場であった。そのようなものであったから氏子の出資(資産に応じたカンパ)で建設も補修も為されたし、日常管理も氏子の奉仕であった。また氏子として神前では皆平等を原則とした。

 較べるべくもないが、このように考えてくると農場がたまごの会の中で果たしていた機能と似ているところがあることに気付くだろう。たまごの会が農場をもったのはいわばたまたまである。農家との直接取引では納得のいくたまごが入手できなくなったこと、また農場に入ることを宣明する青年たちとの出会いがあったこと、1970年前後の“熱気”がまだ残っていたこと、等々である。それはたまたまではあったが、会員の出資で共同農場を作ってみると、それがモノの生産の場以上のものとして機能しだしたのである。会にとってそこは最も公共性が強い中心となり、会員がその氏子となるような構造ができてしまった。残念ながらそこにカミはいなかったが、山岸式養鶏法や有機農業は農業というよりはむしろ自然と結ぶ方法のように理解されていたから擬似的にではあるがそこは自然という何かに通じている場所とも感じられた。会員にとってそこは個人を越えた公共の場所であり、中心であり、自然あるいは野性が露頭している場所となった。「消費者」でしかありえなかった都市民にとってそれは新しい発見であり驚きだった。そこではまた同じ氏子として職業や年齢、思想や経験等々、実社会のシガラミを脱ぎ捨てて自由に振る舞うことができた。このような「構造」と「場所」は産直関係では持ちえないのであり、そのような意味でこの時たまごの会は、はからずも新しい共同性の地平に進み出たといえよう。たまごの会という「公」、つまり共同体の誕生である。

 集団のサイズのことにも触れておきたい。たまごの会はかってのムラと違い、都市部の市民運動であったから地域性は持ちえなかった。「氏子」は都内各地に散在していたから。彼らを“顔や風景みえる”具体的レベルで結んでいたのは農場という場所と配送車であった。地区世話人は折にふれて氏子たちを農場に「参詣」させていたし、会員の手弁当による配送は農場と生き物たちの織りなす物語の語り部として卵や野菜や肉、牛乳などモノに乗せて会員間の口語的なコミュニケーション回路ともなっていた。そのような仕方で、擬似的にではあるにせよ“風景”と“物語り”を共有していたといえるかもしれない。

 ある集団が共同体として立ち上がってくるにはそのサイズが重要なファクターとなる。あまり大きすぎると“風景”と“物語り”が共有できず、口語的コミュニケーションが成り立たないからである。これもむろん意図していた訳ではないがムラ共同体とたまごの会はその点よく似ていた。ムラは普通50戸前後でひとつの集落を形成するが、たまごの会も(会員数は最大時で300戸を越えていたが)コアなメンバーでいえばやはり50人(戸)前後ではなかったかと思う。語られることはなかったが大事な点ではなかろうか。 S


# by kurashilabo | 2014-12-27 10:15 | 鈴木ふみきのコラム