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 先の2月14、15日、いよいよ開拓が始った。例の筑波山直下の耕作放棄地である。今年取り組むのはその谷津田の一部、4.7反(約4700㎡)だ。普段はめったに人の入らない(入ることのできない)湿地に十数人がキャピキャピと踏みこみ、草刈り機6台をうならせて、葦、イバラ、篠竹を相手に奮闘した。もっとも「開拓団」と銘打ってはいるものの、農場のスタッフを除くと草刈り機を使うのは初めてという人ばかりで草刈り機講習会のようでありましたが。予想していたことではあるが、イバラが難物だ。葦は切り倒すだけなら楽だ(問題は地下茎をどうするかということ)。篠竹も専用の歯に替えれば刈り倒すことができる。イバラも切ることはできるが棘があるし、枝がくねくねとからみ、長く伸びてブッシュとなっているので大変だ。しかし少しずつ視界が広がっていくと気分が乗ってきてもう少し、もう少しとやりたくなる。これはしょうがない人間の性(サガ)なのであろう。人間は静かにしていることができない。人の手が入ることがなくなって30年、自然に還りつつある地にワサワサと騒音をまき散らしながら踏み入っていることにどこかしら後ろめたさがある。ボクたちが来なければ静寂そのものの場所であるのに。
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「開拓団」は社会的には「耕作放棄地の再生」ということになるのであろうが、ボクはそれにほとんど関心がない。耕作の必要がなくなればそれを放棄し、自然に返すのは悪いことではない。大地の隅々まで耕作しなければ生きられなかった時代は去ったのだ。(たとえ食糧や飼料が十分輸入できなくなったとしても) そもそも耕作放棄地の再生も里山の再生もできる訳がない。点としてはできても面としてはできない。どちらも広大な面積があり、里山など農地よりずっと広いのだ。経済の構造が変わってしまった以上、それをとり戻すことはできない。人はコンパクトに暮らし、余分は自然に返していく、それでいいし、そういう時代に入りつつあると思う。

 ボクが耕作放棄地に目をつけるのはそういうことではなく、そこに自由に使える場所、空間が出現しているからである。半ば無主の地。その昔、昭和30年代まではあったという都会の中の空き地、広場、所有者が確かにいるのだが誰もが入りこんで遊んでいい場所、そんな気分である。1町歩(約1万平方メートル)を越す、水もきれいで景色もいい場所を自由に使えるのはそこが耕作放棄地だからこそなのだ。むろん丁寧に手順は踏んでいる。地主さんと契約をかわし、農業委員会に提出し、隣接する農地との境界をその地主さんと確認し、不明であれば図面(地積図)をもとに測りなおし…。どれも面倒ではあるが、大半の地主さんは(農地を荒らしておくことにどこかしら後ろめたさがあるのだろう)農業に使うということであれば好意的に対応してくれる。無下に断ったりはしない。そういう手順さえ踏めば広い場所を自由に使えるのである。こんなことができるのは農地だからこそであり、地主さんもおそらくほとんど意識していないが、そこに農地が元来持っている公共性というものが顔を出しているのだと思う。ボクはそこを「いつのまにか進めてしまう農地解放」と言っている(大きな声では言わない)。 

 解放された農地をどう使うかはこれからのことである。米を作ると言いまわっているがそれはとりあえずの看板で、一番通りがよいからだ。むろん米は作るが、ガンガン「農業」をやりたくはない。それではあまりに能が無い。半農半自然くらいでいいし、人の暮らしも含み込んだビオトープのようなことを夢想している。
 今日もまた現地に出掛け、山に分け入って道を探したり、ヤブこぎしながら境界のクイを確認したり、「オレは一生こんなことをして終わるのか」と雨上がりの山を仰ぎみたりした1日でした。 S


# by kurashilabo | 2015-02-14 12:22 | 鈴木ふみきのコラム

 耕作放棄地を再生すると補助金がもらえるということを聞いて、先日役場にそれがどのような制度なのか聞きに行った。すでに何度かここでも触れてきたが、農場では今年から筑波山直下の荒廃した谷津田を4反ほど借りて再「開拓」することになっている。財政が厳しいので多少なりとも補助が出ればとの思いである。補助金には国の制度と、市の制度があって、国の制度は4月になってから申請してその後現地調査があり、許可が下りるにしても来年からで、それまで一切、手をつけてはいけない。作付してからも申請通りに使われているかどうかチェックがあり、そもそも国は米生産を増やしたいわけではないから申請が通るかどうかも怪しい。ということで市の制度ということになるが、これは確かにスピーディで使い勝手が良さそうであった。ところがである、こちらは「農業振興地域内」の耕作放棄地を使った場合という条件がついている。ボクは谷津田は振興地域に含まれていると思っていたのだが(普通は将来宅地として転用してもいいエリアを農業振興法から除外するという形だから)山あいの谷津田など条件の悪い田畑(特に機械が入らないような)は市の農振地域からはずれていたのである。それでこちらの制度も使えそうもなく、残念なことでした。
 そうか、あそこはもはや農地としてさえ見捨てられていたのか、とつくづく思い至った次第。むろん地目は未だに農地であるから農地法の規制は受けている。しかし農業振興地域から除外するというのはそこはもはや農地とは見なさないということである。だから農道も直さないし、むろん圃場整備事業などもやらない、捨て置く、そういうことである。
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 数日前「開拓団」の人たちと数人で現地確認に行った。すでに何度か見ていたのだが、そこに足を踏み入れ向こう側の端に行こうとして果たせなかった。アシ(ヨシ?)はともかくイバラが服や肌を傷つけシノダケが立ちふさがりという具合で、今更ながら「手強そう!」と少し弱気になってしまった。田を30年も放置するとこうなるのか。その上の方にも田は続いていてそこはもはや篠竹が密生していて足の踏み入れようもないが、「それ以前から作っていなかった」ということであるから減反政策の始った1970年代にいち早く放棄されたのであろう。

 見捨てられた土地、棄地。考えてみると、国土の中でこれほど無用で完璧に捨てられた土地はない。谷津田は山あいの湿地なので宅地にはならない。畑にもならない。山のように植林もできない。田んぼとしてしか使いようない土地を田んぼとして使わないとなれば永遠に棄てられたということである。自然の営みに還りつつある土地。こんな谷津田が「やさと」(石岡市)には無数にある。筑波山系に囲まれ、また丘陵地と低地が入り混じる土地柄なので、低地(沖積平野)と台地(洪積台地)の接触面は至るところ小谷津田となる。幹線道路を走っていると圃場整備された美田しか目に入らないが、一歩山あいに足を踏み込めば至るところ放棄された小谷津田である。日本全国どれだけの谷津田が放棄されているだろう!

 ボクは廃墟マニアではないが、谷津田には不思議と惹かれるものがある。日本の原風景などと言う気はないが山と水と人の出会う場所、そんなところである。そんなところを今更手をつけてどうだというのだ。そこを言葉で言うのは難しい。谷津田再開拓は農業というよりむしろ考古学に似ているかもしれない。草やシノや木を刈り、道や畦や水路の原状を確認し、クワを入れ田を作っていく。それは「1965年以前の」日本人がどのようなココロでこの列島で暮らしていたか体で知ることである。更には遠く古代にここを拓いた人々につながることでもある。(実際、知人によれば今度借りることになった谷津田の脇には古代道が通り、中世にはこの谷津田は戦場となったことがあるそうだ。(古戦場)、また谷津田入口では奈良時代末から平安初頭の須恵器窯が発見されていて、当地が古代から重要な場所だったことを示している。)谷津田開拓は米作りというより、山や水という自然、昔の人々の暮らし、その場所に刻まれた長い歴史と出会う旅なのである。S

# by kurashilabo | 2015-02-07 12:16 | 鈴木ふみきのコラム

 ムラ共同体の解体を(おそらくそのプロセスの最後を)内山節にならって1965年と考えればそこからすでに約50年、半世紀である。今ではムラ共同体の解体どころではなくムラ自体の存続もあやうくなり、30年後には多くのムラや自治体が“死に体”になるとみられている。これも歴史の自然過程なのであろう。

 ムラには今の日本(経済)が必要としている富(資源)はもう何も無い。かってはエネルギーの中心であった薪炭や馬はもはや遠い昔話しの世界である。日本の近代前期の土台であった養蚕も終わっている。食糧とて似たようなものだ。戦後すぐは100%近く、1960年でも79%あった食料自給率(カロリーベース)は現在40%弱になっている。この40%とて食糧安保や国土保全の観点、農民対策(選挙対策)として底上げされたものだ。これは食糧も純経済的には必ずしもムラに依存しなくてもよいということを意味している。また農業生産額のGDPに占める割合は1%程度であり、これは農業が無くなっても日本経済は困らない、農業はもはや経済の問題ではないということである。人という資源もまた無い。かって経済の高度成長を底支えした大量の余剰労働力(金の卵)はすでになく、地方を維持していくために必要な数を残すだけだ。今後はそれさえ都市へ流出していくだろうという。人材も少なくなった。戦後の大学進学率の向上は地方からみれば結局のところ有為な人材の流出システムでしかなかった。彼らの多くは再びムラには戻ることはなかったから。そしてまた長い農業社会が蓄積してきた多くの知識や技能も(近代前期には有効であったが)科学技術や情報が高度化した現在では何の役にも立たない。かって(1965年まで)工業や都市を支えた力強いムラや地方は今はもう無い。ムラには日本の現代が必要とするものは何もない。日本経済というマクロな眼でみればそこは巨大な空洞であり、お金がかかるばかりでそこを維持していくのは重荷である。誰もはっきりとは言わないが、ムラや地方は“お荷物”になったということである。政治家は地方重視を言い、“地方創生”などという飾り言葉をふりまいたりしている。空洞化させてきた当の本人が言うのだから笑止だが、国民国家の指導者としては当然のことである。しかしその地方重視は地方の衰退を止めるものではなく、それを前提としたうえでの地方再編(コンパクト化)とセーフティネットの補強ということにとどまるだろう。
 だが経済成長という近代の「信仰」から離れて「人の暮らし」という眼でみると“何でもある”のがムラであり田舎だ。田舎には暮らしの資源はいくらでもある。ヤマがあればエネルギー(薪炭)も建材も竹も山菜も“ジビエ”もある。田や畑があればむろん基本食糧には困らない。川があれば水遊びもできるし魚もいるだろう(今はいないけど)。それらをうまく活用する技能も絶えてはいない。食はもちろんのこと住も衣もかなりのレベルでまかなえる。増え続ける空き家も貴重な遊休資源である。また日本の経済成長のおかげで幸いにも(?)道路は十分すぎるほど整備され、上水道はもちろん下水道も整備されていて至れり尽くせり。だが田舎資源はあくまで暮らしの資源であり、それをお金にしようとするととたんに苦しくなる。平成の経済感覚ではペイしない。(だからあらゆるものが遊休資源化している)しかし「時給1000円のアタマだと無理だが500円で良しとすれば(茨木)」仕事は沢山ある。500円といわず300円でいいと腹をくくれば仕事はもっともっと作れる。やれること、遊び資源はいくらでもある。昭和30年代レベル、「1965年の革命」以前の暮らしならそれで十分可能だ。ア-ミッシュのように近代以前の暮らしに戻らなくても近代前期の豊かさは十分に満喫できる。田舎資源とはそういうものである。

 「SHOEN2015」はこのような時代認識のもとに構想されている。そのイメージについてはすでに当コラム(2013年12月14日~2014年3月22日号)でプレゼンしたので繰り返さない。要は経済成長の結果として遊休化してしまったヤマ、田や畑、空き家、人や技能など沢山の田舎資源を再「開拓」していろいろな楽しいアソビ(事業)を始めようということである。開拓民になるのだ。そうした人と事業のネットワークとして「SHOEN○○」というアソビの広場(生活自給園)を立ち上げる。この開拓は外の開拓と同時に内を開拓することでもある。「SHOEN」はマチ、サト、ヤマという異種文化圏を往還する生き方の提案であり、人類史の身体的復習として新しいココロとカラダを作るプログラムであり、そういうものとして最も深い知性と癒やしをもたらすだろう。「SHOEN」は都市民に寄付と参加を求める。このような場所を最も必要としているのはむしろ都市民であり、彼らは「SHOEN」の未来の住民であるはずだから。年月を経て人も増え、土地になじみ、人と自然の共同体として「SHOEN」は私たちの未来のふる里となっていくだろう。

 たまごの会が(暮らしの実験室を含め)その40年という活動の過程で出会うことになった先述した問題群、農と農業、家畜論、贈与経済と公、集団形成における神社という機能、人間を超越するモノとの関係、集団のサイズ、近代の組織に替わる運営スタイル、共同農場の可能性と難しさ、等々は「SHOEN」活動でも様々な場面で出会うことになるはずだ。そのような意味でたまごの会は今なお教訓的であり、貴重な“先行事例”として記憶にとどめられてよいと思う。 S


# by kurashilabo | 2015-01-31 09:57 | 鈴木ふみきのコラム

荒れ果てた耕作放棄地を開拓しよう!_c0177665_11170067.jpg

やつだ開拓団(仮)団員募集
2015年2月中旬から開拓スタート!
詳細は近日公開予定!

やさとの十三塚という地域の山あいに、30年以上耕作放棄されている荒れ地がある。
30年前は小さな田んぼがいくつも並ぶ「谷津田」だったそうだ。

「山水をひいた田んぼだから、お米がとても美味しかった・・・」
と、この田んぼを貸してくれる80歳を越えるおばあさんが話してくれた。

ここでもう一度お米を育ててみたい。
筑波山に連なる山を背景にもう一つの楽園を作ろう。

わさびを植えるのもいいかもしれない。
果樹を育てることもできるだろう。
炭焼き小屋も作れるかもしれない。
山に入って山菜をとろう。

鎌を持ち、草を刈り、
鍬を持ち、田を耕す。

コンクリートに覆われた都市で野性に蓋をして生きているうちに忘れてしまった記憶。
人間ももともと自然の一部であったことを思いだし、あるがままの自分を開放できる場所になるかもしれない・・・

そんなことを夢見つつ、みんなでこの場所を開拓したい。





# by kurashilabo | 2015-01-27 11:18 | お知らせ

 初期たまごの会の記録映画と言われている『不安な質問』(松川八州雄監督)に農場の居間(3間4軒)でメンバー全員が合唱するシーンがある。明峯哲夫さんがピアノを弾き、惇子さんが“ささら”を鳴らし、魚住さんがギターをもち、鈴木光男さんがエアーで「♪あしたからはあなたなしで生きていくのね♪…」とうなるあのシーンである。ボクは農場の初期メンバーではないが、撮影の終わり頃には農場にいて、このシーンにも隅の方で同席していた。たまごの会のイロハもよくわからない頃だったがこの撮影のあと、女性スタッフの1人が「ヤラセよねぇ」と吐き捨てるようにクサしたのをよく覚えている。確かにあの時以外、皆で歌を歌う光景など見たことなかったし、あとから知ったことだがすでにこの頃には農場内人間関係は最悪だったから。だからヤラセといえばヤラセで、松川氏の映画にこのようなシーンが必要だったので、それを承知で皆が演技したのである。ならばウソかといえばウソでもないところが難しいところで、農場建設はあのような心身の共振と高揚がなければ不可能であったはずなのだ。ウソといえばウソ、ホントといえばホントのような『不安な質問』で松川氏は何を“記録”しようとしたのであろうか。るる述べてきたこの小論にひきつけて言えばそれはやはり生き物と共同体ということになるのではないかと思う。ポスト1965という時代の中で“裸の個”として生きざるを得ない本質的孤独を抱えた都市民が農や生き物、共同体という生き方に触れた時の驚きと喜び、そのようなものではないか。そしてそれが一場の夢として消えていく予感の中で『不安な質問』としたのであろうか。
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 さて、たまごの会が農場建設に着手したのは1974年であるが、もしその10年前であれば「農の課題」など存在せず、都市民による農場建設もありえなかったはずだ。それはポスト1965年という時代にしてはじめて現実的たりえたのである。たまごの会がことばとして掲げたのは「食の安全性」「本物の食べ物」ということであり、言ってみればそれだけだったがそこに生き物や自然とのコミュニケーションの願望、共同体という生き方への欲求があったことは疑いえない。「農場建設」はその最も直接的でわかり易い形だった。たまごの会に関わった人たちが「農場」という単語を発する時、そこにある特有の感情、メタメッセージはそのようなものである。たまごの会はそのレベルでポスト1965年という時代の深いニーズに触れていたのであり、それこそがおもしろさの根源であり、共感を呼んだ理由であるだろう。たまごの会がもしその方向で素直に自己展開を遂げていれば“田舎でもあり都市でもあるような新しいコミュニティ”“人と自然の王国”の試みとしておもしろいものになったかもしれない。しかし残念なことにたまごの会はその可能性を十分開花させる前に勢いを失ってしまった。その理由はいろいろあるにせよ、70年代80年代はまだ冷戦構造の時代だったし、自らを語りうるだけのことばも無かった。早すぎたのである。

 ここまでムラ共同体とたまごの会を並べて考えてきたが、本来比較できるようなものではないことは承知している。ムラ共同体は日本社会のベースにあった実体であり、歴史の自然過程として生まれ、また変容し解体していったのであってそこに個人の意志とか運動とかは関係がない。他方たまごの会は70年代の市民運動一つ、それもごく小規模なグループであったにすぎない。ことばの正確な使い方はわからないが、そのような意味ではたまごの会は共同体というよりコミューンと言った方が正しいのかもしれない。コミューンは一般に人々が意志して立ち上げるものだから。しかしたまごの会をムラ共同体という日本史の経験に照らしてみるとたまごの会とは何であったのか、何たろうとしていたのかがクリアに見えてくるから不思議である。むろんたまごの会はムラのことなど意識したことは全くなかった。それが似てくるとあらば、生き物や自然とともにあろうとする暮らしはおのずと似たような形になってしまうのか、それとも無意識に身体に記憶されたムラ共同体を呼び起こしていたのか、いずれにせよおもしろいことではある。 S


# by kurashilabo | 2015-01-24 09:54 | 鈴木ふみきのコラム