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 なぜかよくわからないが谷津田には強く心を引かれる。今日も筑波山の麓の、とある谷津田を訪ねた。10年程前に人に誘われて一度行ったことがある場所だ。そこは10年前にすでに遊休地化していて荒れ果てていたが、一人定年退職して都会から移り住んでいるオジさんが田を作っていたのである。そのオジさんにたまたま先日犬の散歩中に出会った。近況を尋ねると、「それがまだやっているだよ、イノシシが多くて困る。不耕起(当然ながら無肥料)でやっているんだが、古代米が良く育つ。」ということであった。その谷津田の風景が頭に残っていていつか再訪したいと思っていたのだが道が思い出せないでいたのである。再び道を聞き、暖かな日差しの中、今日行ってきたという次第。もはやどこが田かわからぬほどに葦やイバラが生い茂り、一部はシノ竹が進出してきて足を踏み入れることもできない。その中にオジさんの自然農法の田が(ほんの2~3畝だが)シシ除けの柵に囲まれてポツンとあった。その他はもう全く人の手が入っていない。しかしそこから見える風景はなんとも言えず心に沁み入ってくる。細い谷水がいく筋も流れている。まわりの里山は大半は人工林(スギ、ヒノキ)だが竹林もあり、また元来の植生である照葉樹(シラカシ?)がうっそうと繁っていたりする。その里山がそのまま筑波の峯にせりあがっていくのである。(そこは筑波山の直下なのでむしろ峯自体は見えない)。静かに荒れたその風景の何がいいのかと問われても困るのだが、自分にとってはそこが原初の居場所なんだという気がする。

 谷津田とは小さな谷に拓かれた田のことで谷戸田ともいう。ヤチェというのがアイヌ語で谷という意味だそうでそこから来ているとか。古い時代に開拓された田なのである。私たちは広い田ばかり見ているので、ややもするとこのような谷津田はあとからオマケように作った田だと思ってしまう。しかし本当は逆で谷津田の多くは古い時代のものである(もっとも何の記録もないので本当のところはわからない)。広い沖積平野に田を拓くにはしっかりとした土木技術(水利の技術)と流域全体を治める安定した政治権力と経済力が必須で、それが本格化するのは戦国大名あたりからである。利根川、荒川、多摩川など大きな川が乱流を繰り返す関東平野に田が拓かれるのは江戸時代になってからのことである。戦国時代、戦争に投入されていた技術、資金、人員が徳川という統一権力の下で新田開発に向けられはじめて豊かな穀倉地帯に変わることができた。

 農業的にはきわめて価値の低い(手間ばかり多くかかるから)谷津田にかくも心を引かれるのはそれが子ども時代に見慣れた風景だからだろうか。原風景というような。テレビもゲームもなかったその頃、子どもたちは兄弟や近所の悪ガキと連れだって、歌にある通り、『小鮒釣りしかの川、ウサギ追いしかの山」の毎日であったのだ。人生に必要な基本はすべてそこで学んだ。小川や山はボクにとって学校以上に学校であった。今にしてそう思う。自分にそういう時代があったのは幸運なことだ。(もっともそこを卒業して大人になれなかったのがボクの人生問題・今こんな農業をしているのもその結果。)もし子ども時代の原風景を谷津田に投影しているのだとするとゲームとパソコンで育った子どもたちにとって谷津田の風景などただの荒れ地ということになるのだろうか。それは団塊の世代の感傷にすぎないのだろうか。それとももっと深く類的レベルあるいは民族的DNAの地層からその感情はやってくるのだろうか。 S
by kurashilabo | 2014-02-22 14:57 | 鈴木ふみきのコラム