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カテゴリ:鈴木ふみきのコラム( 239 )

開拓日記 2016年4月9日

 耕作放棄地という問題にもう少し触れておきたい。戦後、農地が耕作放棄地化してきた過程は3段階くらいに分けられると思う。

 日本の農地が最大化したのはおそらく戦後食糧難の時で、その頃は戦地から男手が戻っていたし(むろん戻らない人も多かった)それまでの「産めよ、増やせよ」で子どもも多かった。また外地からの引揚者も多かったから田舎には余剰労働力があふれていた。そこで「こんなところまで」と言いたくなるような山あいの狭い土地まで開墾され耕された。それが必要だったし、できた時代だったといえる。しかし60年代に入る頃までには食糧問題は解決していたし、経済の高度成長のトバ口で工業地帯で沢山の労働力を必要としていたので田舎から都市部へ人口の大移動がはじまる。この頃山間の極端に非効率的な「農地」は耕作放棄されていく。今でも「昔はここも畑だったのヨ」と言われてびっくりするような場所も少なくない。私たちが「開拓地」と呼んでいる奥の方はそういう部類に入る。

 その次は90年代の頃までで、「(経営的に)作るものがない」ので遊休農地から更には耕作放棄地化していくというものである。田でいえばむろん減反がそうで、3割から4割が減反になったので機械の入らない効率の悪い田が休耕ないし放棄地化した。小さな谷津田などはその代表的なものである。畑では自由化により麦類の作付が無くなったことが第一。養蚕の衰退による桑園の放棄地化も大きい。抜根して畑地化してもあまりに広大で作るものが無い。農場の場合もそうだが、新規就農者が借地している畑は大半が元桑畑だったところだ。この地方でもうひとつの経営作物だったタバコも2000年代に入って急速に減り、今ではほとんど見なくなった。こうして元桑園やたばこ畑が遊休農地化し、一部では耕作放棄地化している。

 現在はその段階も過ぎ、人が消えることによる耕作放棄地化が進んでいる。農場で毎年クズ芋や芋づるをもらっていた中島のジイさんも死に、彼の芋畑は今は葛に覆われている。すでに90代で、戦後農業を中心的に支えてきた世代だ。彼らがほぼリタイアしてしまった。田舎に残って農業を継いだ団塊の世代もすでに70代になる。あと10年か20年しかもたない。彼らがいなくなれば管理耕作する人もなく畑の多くは遊休地から耕作放棄地化していくはずだ。そのあとを継ぐ人はたぶん少ない。

 このように耕作放棄地という問題はあってはならない例外的事例ではなく戦後農村の基調なのだ。「田はよく耕作されているではないか」と言う人もいるだろう。しかしよく見ると実は8割方の田はその所有者からみれば耕作放棄されている。自分では耕作せず、集落に1軒か2軒あるライスセンターとも呼ばれている事業者に作業を委託するか、貸し出しているからだ。「見かけ耕作」と言ってもいいかもしれない。そしてその事業者がなぜライスセンターをやっていけるかといえば、米価が政策的に維持されているからなのだ。関税障壁で外国米をシャットアウトすることによって、あるいは選挙でJAや農民層を取り込むために。米は政治的な作物、「聖域」なのである。

 今現在、国会ではTPPをめぐって例によって例の如き論戦が繰り広げられている。農業新聞も連日反TPPの論陣を張っている。では当の地方や農家はどうかといえば、どうもあまり怒っているようには見えない。平和な日常だ。それもそのはず8割方の「農家」にとって実は農業問題などすでにないのである。彼らの家計に占める農業収入の割合はごくわずかで(場合によると持ち出し)実際には勤め人であったり自営業であったり、年金生活者であったりする。農業経営がなければ農業問題は存在しない。(むろん「産地」と言われる地方や、このあたりでもライスセンターの事業者、畜産関係、イチゴなどの施設栽培、果樹等は経営であり、それぞれに事情は異なる。)

 しかし農業問題がなくなっても農地問題は残る。経営がなくなっても農地が無くなる訳ではないからだ。農業問題がなくなって、遊休農地、耕作放棄地の問題が地方の問題の主役として前景化するだろう。30年後には多くの地方が「消滅」するとさえ言われている。その当否はここの議論ではないが、考えてみれば地方が消滅に向かう時、美田やよく耕された畑地がそこにある訳がないのである。遊休農地や耕作放棄地という「原野」が延々と広がっているはずだ。いやむしろそれこそが地方消滅の波頭なのである。(続く) S
by kurashilabo | 2016-04-09 10:21 | 鈴木ふみきのコラム

開拓日記 2016年4月2日

 「開拓地」の魅力は何といってもそこが「耕作放棄地」だということである。谷津田は湿地だし、米を作らないとすれば他に使い道が無い。宅地にも別荘地にもならない。そして人が入らなくなり、20年、30年、40年と経てばアシやシノ竹が密生し、道は崩れ、原野以上に原野となる。持ち主もそこを耕作した世代は世を去り、子の代孫の代になるとその土地の記憶も薄れ、境界はむろんのこと、そこに「ウチの田がある」ことすら忘れられていることもある。一筆借りているジイさんが言ったものだ「オレが死んだらあそこのことを知っているのはもう誰もおらん」と。気にかける人もなく長らく放棄された谷津田はこの世から消えつつある土地なのである。
むろん耕作放棄地といえども法的所有者はいる。しかし原理的に言えば私的所有が意味を持つのはそれに使用価値があるからで、使用価値がゼロなら所有に意味はなく時間とともに私有意識は薄れていく。そこを耕作していた世代ならば愛着もあるが、子や孫になればそれも無い。

 このようにしてそこに「無主の地」が生れる。私的所有で固められ、他者を拒むばかりの地上でそこだけはとても自由な風が吹いている。遠い昔、無主の地である「河原」には世間からあぶれた者たちが住み着き、「河原者」と呼ばれた。そこから今日につながる多くの芸能が生れたといわれている。開拓地の自由な気分はどこかそういうものに通じている。

 耕作放棄地と似たことばに遊休農地というのがある。しかし遊休農地は「今は耕作を休んでいるがこの先使うかも知れず、農地として保全すべき土地」で耕作放棄地(もはや農地としては使う予定のない土地)とは違う。農場で通常借地するのは遊休農地で、トラクターを入れればすぐ使えるようなところが多い。楽ではあるがあくまで「農地」であるし、所有者やまわりの目もありあまりバカなことはできない。どこからどこまでを遊休農地としてみるかはむずかしい。管理のためトラクターだけ入れているようなところもあれば栗や麦が植えてあっても経営目的はなく荒らさないためだけというのも多い。他方、管理している人が亡くなり、跡取りもいないと必然的に耕作放棄地化していく。畜産関係やイチゴや花などの施設栽培を別とすれば当地方の畑はそのいずれかであり、大半は遊休農地化している。今の高齢世代が世を去ればその多くが耕作放棄地化していくことになる。そして20年あるいは30年のうちにこちらの谷、あちらの丘と無主の地は増殖し、新たな開拓者を待つことになるだろう。(いや、もうすでに)

 耕作放棄地の再生など本当はあまりホメられた話ではない。必要ないから放棄地化していくのであり、それで誰かが困っているわけではない。米など作っても米余りの時代に余計なことしないでくれと言われかねない。寝た子を起す、いや安楽死しつつある者を生き返らせて何になる。自然に帰す、山に帰っていく、それでいいではないか。いや、全くその通り。だがそういうことではないのだ開拓は。耕作放棄地は農地が農地としての桎梏から解放されてただの土地、誰のものでもない地面として私たちの前にマスとして出現し始めている、そういう現象として見るべきなのだ。そこで私たちは「人と自然」という現代の根本問題を体を使って考え、生きることが出来る。自由の大地、フロンティアなのである。

(念のため言い添えると「無主の地」と言ったところでそれは原論で、むろん法的所有者はいる。私たちの開拓も敬意を持って彼らから借地し、必要な手続きと必要な地代を支払い、その了解を得つつ進めている。ご心配なく。)  S
by kurashilabo | 2016-04-03 10:18 | 鈴木ふみきのコラム

 かおりさんが図書館で借りてきたDVDでドキュメンタリー映画「延安の娘」を観た。ちょっと古いが池谷薫監督の2002年の作品である。普段ドキュメンタリーはあまり観ないがこれは出色だった。ドラマ以上に引き込まれた。文化大革命時代、北京から延安に「下放*」させられた青年たちがその地に残してきた「娘」を、すでに50代になっている彼らが実の親に会わせてやろうと世話をやくという話である。言ってみればそれだけなのだが文革とその時代を生きた人間について深く考えさせられた。当時、下放青年たちの恋愛はご法度で、まして子どもを産むなどは「下放破壊」とされ「労働改造」の対象とされた。それ故、堕胎したり、不本意にも生んでしまった子は捨ててきたらしい(労働力が欲しい地元の農民が育てる)。主人公はその捨てられた娘というより、彼女を「自分たちの娘」として世話を焼くことでそれぞれの文革と向き合う元下放青年たちなのだが、その群像に不思議な親近感を覚えた。状況は全く異なるが、そこには同時代を生きた者に共通する何かがあるように思われた。

 内容についてはコメントできるようなものはないが、それよりもまず黄土高原の荒涼たる風景に圧倒された。崖のように深く落ち込む無数の谷で削り出された乾いた台地、その延々と続く台地上を人が立てるところはくまなく耕す小さな人間。見ているだけで肌がカサカサしてくる感じ。あのような風土はどのような人間を作るのだろうか。そんなことを考えた。また同じ農業でも私たちが日頃語るような言葉も論理も通じないのではなかろうか。例えば「自然と農業」と言ったところでその「自然」がない。里山もないし川もない。草も無い(ようにみえる)。あるのはむき出しの乾いた黄土だけ。そこでは農耕だけが生物的自然なのである。もっともそこが「革命の聖地、延安」だということはあるかもしれない。9千万人が住んでいるという黄土高原が全てこんな風だとは思えない。不毛の地だった延安を人海戦術で「改造」していく、(今となって考えれば)プロパガンダ映画をその昔し観た記憶がある。

 なんだかんだと言っても私たちの自然は圧倒的に豊穣である。もう野も畑も花々であふれ木々が一斉に芽吹き、うぐいすが鳴いている。彼岸も過ぎ、農場ではいよいよ今年の米作りが始まる。4月に入れば苗代作り、タネ(モミ)蒔きだ。今年の農場の米作りは「開拓地」でやることになっている。苗代もそこで作る。とはいえ開拓地は耕したり「代掻き」したりできない。カヤが生えていた湿地は機械がもぐってしまうし、篠竹が密生していたところはその根でトラクターもはじかれてしまうのだ。またススキやイバラの株が沢山あってこれも難物だ。そこで地上部だけを地ぎわで刈払い、そのまま水を入れ、田植えは棒で穴をあけながら植えるしかない。しかも代掻きしないので水が底もれする恐れがある。何もかもやってみなければどうなるかわからない。自然農法を目指した訳ではないが、自然農法にならざるを得ない。すでに苗代用に水を入れている。私たちの自然は水で満たされている。ありがたいことに。 S
by kurashilabo | 2016-03-26 14:48 | 鈴木ふみきのコラム

開拓日記 2016年3月19日

 開拓地では現在重機(ユンボ)を使って道をつけたり、竹や木を切り倒したりと騒々しいので、ご近所にお断りを入れとこうと思い、先日2~3軒を訪ねた。住民とはいっても集落からは離れた場所なので元々のムラの人ではなく、移住してきた人たちだ。一番近い一軒は30年ほど前に来たという元筑波大学の先生である。もう一軒も20年前程前、バブルの頃「バカな値で買ってしまった」という、これもなかなかの人品の人であった。夜ともなればキツネが鳴くかイノシシが庭を掘っているような場所によくも長く住んでいるものだと感心する。
その「バブルの頃買ってちょっと損した組」という方は丁度ボクと同年代で話がはずんだ。「この先に中世の城跡があるんだょ、案内するから行かないか」という。城とはいっても中世のものは山城、つまり自然地形を利用した砦だ。このあたりでは中世で最後となる戦いとなった場所だという。開拓地はその昔古戦場だったといは聞いていたが砦の話は初耳なので興味をそそられた。

 すぐそこだというけれども山道である。呼吸器系弱者としては一瞬逡巡したがついていくことにした。「腹を切って(手術して)以前のパワーは無いが」と言う割にはスタスタと登っていく。ボクはハァハァと息つぎしながらついていくのがやっと。「大丈夫ですか」などと声を掛けられるしまつ。来たのを半分くらい後悔した頃(時間では15分くらいのもの)やっと到着。 調査が済んでいるのかどうかは知らないが、「空堀(カラボリ)」がはっきり残っていて中世の城塞であることは間違いない。裏にまわれば「馬の背」と言ったか小さな峰の両側を人工的に削り落とし、人一人しか通れなくした峰道が造ってある。周囲には何段かのテラス状の平地が造られている。ここに筑波山の向こう側(表筑波)の小田城を本拠とする兵がたてこもり、柿岡や小幡方面の佐竹の兵を迎え討ったのである。(元亀四年三月、西暦1573年)。標識は無いが「長峯砦」と呼ばれているそうだ。
周りを覆う雑木の間から少しだけ下のムラや田が望める。台地状に突き出した場所なのでその昔は下の方が広く見渡せたのであろう。ちなみに私たちは山は昔も今と同じように木々に覆われていたと考えがちであるがそれはどうも違うらしい。昔の里山は草地や低木林がほとんどで禿山に近かったという。少し長くなるが説明すると、その理由の第一は薪炭である。昔の生活は料理も暖房もすべて薪炭であったからそのために木を日常的に切っていた。(炭は自給よりも売るためのものが多かった)しかも切るのはナタであるから大木は扱いきれない。低木林でないとダメなのだ。どの家でも365日使うので広大な里山を必要とした。第2は田の肥料として大量の若枝が必要だった。春先に若葉のついた小枝を沢山刈り取って田に踏み込んで肥料とした(刈敷)。第3はマグサである。馬や牛のエサだ。馬の役割は今の軽トラックと同じで運搬が仕事。乗馬の習慣は日本には無かったし(江戸時代は武士以外は禁止されていた)農耕馬もいなかったが(馬耕は近代になってからの技術)厩肥を採る目的もあってムラには馬が沢山いた。そのために草地が必要で(マグサ場)山や河川敷などが利用されていた。(1頭あたり約1haの草地が必要)。その他にもカヤ場があるし(屋根をふくためのススキ原)焼き畑も行われていた。このように里山は酷使されていて、低木林や草地になってしまうのである。
何の話だったか・・・そう砦だ。

 息がキツかったので見学もそこそこに登りとは別の沢沿いの道(道など無かったが)を下って帰ったのだが、近くには滝もあるのだという。滝とはいっても水量からして馬のションベン程度のものらしいが「赤滝」という名前もついている。いつか見てみることにしよう。実に有意義な一日でした。ハイ。 S 
by kurashilabo | 2016-03-19 14:32 | 鈴木ふみきのコラム

開拓日記 2016年3月12日

 先週の週報でかおりさんが「開拓は自然破壊だ、アマゾンの開発とどこが違うのか」というような誹謗中傷を書いていたので少し考えてみた。
(※編集注:誹謗中傷という言葉遣いは鈴木節なので、カオリさん本人は気にしてません。)

 農業が壮大な自然破壊だということは今更言うまでもない。私たちが日頃見慣れている田も畑も集落も、川や山も田舎の風景はすべて自然破壊のあとに作られたものだ。川を例にとれば山あいの峡谷を別として、田の広がっている平場の川はすべて元々の川ではなく農業用水化されている。平野部では川は乱流するので、その流路を定め、掘り込み、土手を築き、ダム(落差)を作って支流に流し、それぞれの田に配水できるようにする。農場の前の小倉川も恋瀬川も利根川もそうである。その時その場の権力が多大な金と労力と技術を投下して治水(自然破壊)し、はじめて田を作ることができる。集落もそのあとに人為的に作られる。徳川権力による関東平野の治水と新田開発はとりわけ有名だ。もともと江戸湾に流れ込んでいた利根川を現在のように銚子の方に付替えるなどして今日見る関東平野の広大な農業地帯は出現したのである。 

 それだけ大きな自然破壊であるのに私たちは普通それに怒ったりはしない。(普通でない人は当然いると思う)むしろ田舎の風景に自然を読み取ってしまう。その理由を考えてみると、まずひとつには農業もまた自然だからである。作物が育つのも動物が育つのも要は自然の営みで、人はそこに(より増殖性を高めるために)操作的に介入はするけれども結局のところ自然の力に依存するしかない。農業はいわば自然の“まねっこ”にすぎない。そういう意味では農業による自然破壊は破壊というより「改造」と言った方がいいかもしれない。そのうえに農業的自然を出現させるための。そこが都市的あるいは産業的破壊と本質的に違うところだ。都市や工業では自然は完全に排除されなければならない。

 いまひとつは農業的破壊は自然性の完全な排除ではなく改造であるが故に自然の自己復元力が常に働いているということである。人が「管理」の手を引けばたちまちにして自然に還っていく。それは耕作放棄して30年の「開拓地」をみればわかるだろう。また除草等、農作業の多くは自然の自己復元力を押し戻し、そこを「人間の」土地としておくためのものという言い方もできる。農業は人為と自然の自己復元力とのバランスで成り立っている。(世界的にはこの復元力が弱く農耕に適さない場所も多い。)

 そして合理的にデザインされた農業圏は自然植生より生物多様性に富み、奥行きのある自然であることができる。原生的自然は安定しているがそれがその土地のもつ潜在力の全てではない。例えば当地は元々の自然植生は照葉樹林地帯だが照葉樹林というのは中は暗く、生物相もさして豊かとはいえない。また湿地帯は(開拓地のように)アシの群落となるのが普通だ。そのような場所を切り拓き、畑を作って多様な作物を育て水路を開いて田を造れば、それは原生的自然ではないが「よりよい自然」といえるかもしれない。人間的自然であるにしても。(現代では人間の破壊力が格段に大きくなったので原生的自然の「保全」は必要だが原生的自然は価値で農業的自然はバツだというのはひとつの偏見だ。農業的自然の貧困化こそ問うべきだろう。)
また農業にあってはそこに人の「暮らし」が築かれているということも重要だ。伝統社会では暮らしは田畑だけでなく、山や川にも深く依存していた。それゆえ、その自然が貧困になれば人の暮らしも貧困化する道理なので、人々はそこをより快適で持続性の高い場にするための努力を続けてきた。農業的自然はその核に日々の人の営みがあって成り立っている。

 このようにして(図式的にいえば)集落を中心としてそのまわりに田畑や用水路など「人為」の強く働くエリアがあり、その周りに里山という元々自然と人の農林業的介入の拮抗するエリアができる。(その外側は奥山という里人にとってはもはや他界、マタギや修験者など身を潔斎した人たちだけが立ち入ることができるエリアとなる。) 歴史を重ねてそれは「風土」という人間を含めた2次的生態系となって安定する。弥生の農業革命以来、人々はこの2次的生態系を日々の自然として生き死にし、その中に幸福も不幸も築いてきた。それが農業社会の基本的構造だ。原生的な「自然」という概念は近代になってもたらされたものであるし、「自然破壊」という概念などはたかだが50年ほど前から使われだしたにすぎない。そのような概念を使って農業を語ることはできない。(ちょっと変てこな文ですが続く) S 
by kurashilabo | 2016-03-12 14:27 | 鈴木ふみきのコラム

開拓日記 2016年3月5日

 「開拓地」では現在ふたつの作業を進めている。ひとつは苗代の準備だ。4月の頭に種を播くのでそれまでに苗代用の田を用意しておかなければならない。先の土日に「開拓団」の人たちと一緒にまず去年復活させた水路を直し、田の畔を盛り、排水路の泥さらいをしてなんとかまた田んぼらしくなった。沢からの水の取入口はパイプも水路も砂で埋まっていて大変だった。大雨になると沢の砂が大量に流入してしまうのだ。
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 いまひとつは道作りである。開拓地は今のところまともな道がなく車を入れることができない。(あるにはあるのだが、大変使いにくい)。それで西側の山の斜面に200メートルほどの新しい道を造成しているのである。将来のことを考えれば自前の道が必要だ。重機(ユンボ)を持ち込んで斜面を削ったり土盛りしたりしながらS字状にくねくねと下っていく。「ボクの前に道はない、ボクの後ろに道はできる」で楽しい作業ではあるのだが、急カーブになるところはどうしても傾斜がキツクなりがちで難しい。今日、やっとのこと重機を一番下まで下ろした。その先が難所で、4メートル位の崖になっており、そこを切り通しつつ土盛りして沢に出なければならない。しかも孟宗竹が密生していたり、廃マルチ(ゴミ)が沢山捨ててあったりでやっかいなのだ。その沢を越せば開拓地に出るのだがそのためには橋を架けなければならない。水流は2メートル幅くらいなものだが橋を架けるとなると5メートル位になる。金をかけずにどうやって車が通れる橋を架けるのか、あれこれ思案しているところだ。

 道を造っているところは竹林のキワであり、いまや竹林に飲み込まれつつある場所なので、地面の中には縦横に地下茎が走り、あちこちに孟宗竹が生えている。掘り進めるにはブチブチと地下茎を断ち切り竹は切り倒して片付け株を抜かなければならない。地下茎はまだしも株の抜き取りは予想外に大変だ。びっしりと強靭な細根をまわりや地下深くに伸ばしていてビクともしない。重機でまわりから掘っていくしかない。しかし考えてみればあれだけの背丈がありながらどんな強風にも倒れることがないのだから株元が軟弱であるはずがない。

 そんな場所なので、掘っていると地下茎と一緒に小さなタケノコを掘り出してしまうことがしばしば。はじめのうちは「ラッキー!」と拾い集めて持ち帰ってきたのだが、ゆでたり皮を剝いたりが面倒なので誰も料理に使わない。何でもありがたがられるのは始めだけ。今日もいくつか出たがそのまま埋めてしまったり放り出しておいた。夜にイノシシたちが「ラッキー!」と喜ぶことだろう。すでにイノシシたちは夜な夜な竹の子を掘っているようである。朝見るとあちこちに掘り起こした穴があり、竹の子の皮が散らばったりしている。まだ地中深くに小さく縮こまっている竹の子をどうして見つけることができるのか驚くばかり。その嗅覚や恐るべし。西洋では土中のトリュフ捜しに豚を使うと聞くがあの鼻はダテではないのである。

 毎日山の方へ「出勤」し、一人でそんなことをしていると時々とても不安になる。一体オレはこんなところで何をしているのか?何といういうバカなコトを始めてしまったのか。しかしそれも一瞬のことで、重機に乗ってエンジンをかけパコパコとやりだせばもう「土掘りハイ」になって自分の脆弱な身体や精神ことは忘れてしまう。今は何も考えないことにしよう。作業をコツコツ進めることが道を切り開く。  S 
by kurashilabo | 2016-03-05 15:40 | 鈴木ふみきのコラム

開拓日記 2016年2月27日

 例の「開拓地」は30年前までは(一部は40年前)小さな田が階段状に続く典型的な谷津田だった。昔の航空写真をながめているだけでも何か懐かしい気持ちになる。田は今もどこにでもあるが、よく整備された広い田が延々と続く風景には何の情感も催さないから不思議だ。今の日本の米はすべてそうした田で作られているというのに。また「棚田百選」などと持ち上げられて、美しい棚田はしばしば写真の被写体となったりする。保存運動も盛んだ。(ちなみに谷津田が谷筋に拓かれた田であるのに対して棚田は山のゆるやかな中腹に階段状に造成された田のことをいう。そのため用水の確保とあいまって大工事が必要となる。時代的には江戸時代以降のものが多い。)

 その理由を「すでに失われたもの」「子ども時代に親しんだ風景」「手仕事の美しさ」などと考えてきたがそれだけでは言い足りない気がする。多くの人がそこに「原風景」を感じとるのはそれがひとつの「解」としてそこにあるからではないか。列島の自然とそこに生きる人間との最も合理的な解。「昭和30年代までは」どこにでもあったが、今ではあえて保存したり、「発掘再生」しなければならない解。自然と人がせめぎ合いつつ協調してきた場所。日本史のひとつの達成。また過剰さを抱え込んだ人間と自然との関係についての解。人間は自然(動物)でありつつ自然ではない過剰を生きている。その過剰をどこにソフトランディングさえるのか。その根源的な問いに対するひとつの解。アートとしての農。

 農業はその昔から「食うために」営まれてきたというのは間違いないだろう。自給的にとか、社会的分業としてかはともかく。しかし同時に農業は過剰を生きる人間の、自然との「戯れ」でもあった。農業のおもしろいところはそこだ。ところが近代になって「生産」とか「労働」といった概念を手に入れた私たちは農業を食糧生産という概念に落とし込んでしまった。そして農業は産業のひとつの分野になった。一次産業である。本質としてたわむれであり、アートであったことはすっかり見失われてしまった。生産性と利潤だけを病的に追い求める近代農業はその延長であり、極北である。良く整備された広大な田に惹かれるものが何も無いのはそこがただの生産手段としての圃場にすぎないからだ。

 蛇足だが、何の前提もなく「農業はアソビだ」とか「戯れだ」とか口走って誤解されることがたまにある。それは余暇としてやっているということでも、生活がかかっていないという意味でもなく、農業は自然から自らを切り離した「人間」が(ヒトは自然から自らを疎外させることで人間となった)再び自然を取り戻そうとする欲望をベースにしている(と思う)。 人間的自然として。そういう意味で自然との戯れともいえるし、あそび(アート)であるとも言える。そんなところだ。ボクの理解では余剰とか生産とかはあとから「発見」されるのである。

 開拓地に話しを戻せば今のところその階段状の田を復元しようとしている訳ではない。そもそも全部で百数十枚の田があり(昔の航空写真で数えてみた。現在借りているのはその一部、25枚くらい)それを復元し維持するのは容易なことではないし、さして意味があるとも思えない。むしろそれをベースに私たちなりの「農」をデザインしていくことになるだろう。「懐かしい未来」の風景として。最終的にそれを「アート」たらしめることができるのかどうか、道は遠いのである。 S 
by kurashilabo | 2016-02-27 15:19 | 鈴木ふみきのコラム

16/2/13(土)の農場週報

 16年度の総会において、「週報をもっと気軽に読めたりコメントできるようにしてほしい」との意見があり、ブログおよびfacebookにアップすることにしました。プッシュ型としてメルマガ案も出たのですが色々あると面倒なので続けられる範囲に絞りました。毎週更新していく予定ですので、関心がある方はぜひ読みにきてください。
 内容は週報の転載になりますが、「週報向け(会員向け)に書いたのでウェブには載せたくない」という申し出があった記事については不掲載とし、その旨はお知らせしません。形式は、「■スタッフ名、本文」、「○ゲスト名、本文」、「●きっちんから(人物名)」とします。週報紙面上で任意で用いられる写真については面倒なので掲載しません。
 ブログ及びfacebookでコメントをいただいた場合は本人に伝えますが、返信できるかは保証の限りではありませんので、ご了承ください。また、特定の記事へコメントいただく場合は、それが分かるようにご記入ください。
 それではどうぞお楽しみください(いば)


■ふみきコラム
 今や思想界の灯台のような存在である内田樹氏が教育の本義について次のように言っている。「教育の受益者は子どもたち自身であることを当然のように人々は話している(いい学校に行き、いい職業と高収入を得、いい配偶者と出会い…)」しかしそれは違うのではないか。「(その)集団を支えるだけの見識と能力を備えた“頼りになる次世代”を安定的に確保することが教育の目的」で受益者は「子どもたちを含む共同体全体」だ。「一定数の“頼りになる大人”が安定的に供給されなければその集団は滅びてしまうのだから」と。ウーム、確かに。
 ボクは教育を受けて自己利益の増大もできなかったし、頼りになる次世代にもなれなかったが、それはともかく、全く同じことが農業についても言えるのではないかと思ったのである。「農地の公共性」について考察した折にも触れたので繰り返しになるが少し考えてみたい。
 今日、多くの人は農地は農家のものであり、そこで何を作りどこに売ろうと自由で、農家が自己利益の最大化をはかっていくことは当然だと考えている。当然というよりむしろ今日の政治経済はそれを奨励さえしている。有機農業者を含め、そのことに疑念をはさむ人はほとんどいない。売れ筋の作物を上手に作り、上手に売ってより稼ぐのが有能な農業者ということになっている。しかしそれは違うのではないか、少なくともその論理だけで農業を語ることはできない。
 農業は長らく「この列島で暮らす人々が安心して食える(飢えない)」「子の代、孫の代になっても食える」ために全体にとってなくてはならない営みで、農家はまずもってそのような“公共性”を担っていると意識されてきた。それ故にこそ人々の農家に対する敬意も生まれたし、農家の百姓としてのプライドの根拠もそこにあったと思う。であるからこそ農地も“公共財”として公共的に(国、自治体、ムラ共同体)管理されてきて、そのことに誰も疑問をはさまなかった。農地が単に農家が私的所有する生産手段にすぎないのであれば(アメリカなどではそのようだけれど)その整備事業に税金を投入することなどあり得ない。
 先の戦争中にでき、つい先日まで生きていた食糧管理制度(食管制度)も「供出させられた」などとその強制性に評判は悪いが、それが長く機能し広く受け入れられてきたのも食糧(この場合は米麦)は全体益に関わるものという暗黙の了解が農家にも国民にもあったからだ。もう少し時代を遡って江戸時代についていえば「7公3民」とか「5公5民」とか、ひどい年貢で百姓は苦しめられたという物語は今も広く流布している。しかしこれも「本来生産物は生産者のものであるのに税としてこんなにも搾取されている」という近代の価値観を投影するからそうなるので、田も米も本来「公」のものという意識があったからそれも受入られていたのではなかろうか。(むろん年貢を減らすよう嘆願や一揆はあったが、全体としては受け入れられていた。もっとも年貢率というのは表向きのもので、実際はそれほど高率ではなく江戸後半期には実質的には2割前後程度だったようである。)
 このような農業観を根本的に覆したのは明治の地租改正である。地租改正は農地の一筆ごとに地券を発行して所有者を明確し農地の私的所有を国家として認めた。それ以上に重要なのは農業の「公共性」の端的な表現であり、百姓のプライドの拠り所でもあったはずの「年貢」をなくし、税としての金納にしたことである。そのことで米は市場で扱われる商品作物にすぎないものとなった。そこから近代の地主小作問題や大正の米騒動などへは一直線である。
 むろん米やその他農産物を統制せよと言うつもりもないし、車や工業製品を売るために農産物を輸入するのも、「米が余っているのに輸入する」というバカげたこともある程度やむを得ないかもしれない。しかしだからといって新自由主義的な市場経済の論理一本槍で農業を再編しようというのは間違っている。農業というのは「その集団、この列島に住む全員が子の代、孫の代まで安心して食っていけるという共同体全体の利益にかかわるもの」であり、それ故に「全体で農地という公共財を維持し農家を支える」というのが本義であると思う。(逆に自己利益の最大化にしか関心のない農家を支えようとは誰も思わない。現状はそれがほとんどだが。)
 「競争原理の導入」とか「強い農業」とか「6次化」とか「自給率何パーセント」とかあれやこれやの浮ついた言論が飛び交っているが、農業はどこまでいっても農業なのである。そうでなければ困る。


■かわ
 農場のお正月の恒例行事、1年の目標を書く『書初め』。私が書いたのは、4枚。そのうちの1枚は、『醤油』!醤油を作ってみようともくろんでいるのです。去年も思っていたのですが、いつ仕込むのかとかよくわからないまま、適期がすぎてしまいました。今年は近所の農家さんで醤油先生を見つけ、その方が仕込むときに声をかけてもらい勉強&実践するという予定になっています。今年こそは!!そんな思いで麹の種菌を買い、醤油作りに向けて麹と仲良くなる練習をせねばと思っていた今日このごろ。
 手作り醤油ができました。私はまだ何もしていないのですが。キッチンに置いてある味噌をきらしてしまい、大樽から2年物の味噌を取り出そうとすると、表面にタプタプとたまっている黒々した液体が。もしやこれはたまり醤油!舐めてみると、美味しい。大事にボウルにとり、その後、漉すとたまり醤油のできあがり!さっそく食事当番のハディさんが夕食のメニューを贅沢にも刺身にしてくれ、たまり醤油を堪能しました。
 西日本出身の私にとって、刺身といえばたまり醤油!東京に来た当初は普通の醤油で刺身を食べることにびっくりしたものです。
よくばってうっかり醤油をつけすぎるとかすかに味噌の風味がしますが、たまり醤油で食べるお刺身はとても美味しい!そして自給醤油だと思うと、それだけで嬉しい。刺身以外にも、いろいろ使ってみようと思います!


■かおり
 年に一度の農場の総会がありました。私は見学でしたが、皆で運営方法や農場の未来についてわいわいガヤガヤしているのを見て「一緒に考える仲間がいるっていいなあ」としみじみ思いました。個人経営だとまた全然違った感じなんだろうなあ。また、メンバー全員が運営者であると同時に消費者であることも、視点がどちらかに偏らず客観的で多様な意見が出てくるので、大きなメリットだと感じました。
 個人的に嬉しかったのは、総会後の懇親会で、野菜セットを取ってくれているシェアハウスに行けたこと。いつも野菜の収穫や袋詰めをしながら「この野菜を食べるのはどういう人たちなんだろう。どんな場所でどんな暮らしをしているんだろう」と考えては勝手に想像してみたりしているのです。そういえば収穫祭の時にたまごの会からの会員さんとお話しできたのも、嬉しかったなあ。今回は住人の人たちにはほとんど会えませんでしたが、なんだか楽しそうな住まいで、台所に農場の野菜が置いてあるのを見てまたちょっと嬉しくなったりして。またこういう機会があるといいなと思います。


○ちひろ
 舟田家では、基本的にはレギュラーセットと同じ内容で1週間の食事をやりくりしています。
 この時期、カブ好きな私としてはまずカ ブに手が伸びてしまうのですが、その一方で常に後回しにしがちな野菜も。私にとってはその代表格が芋類です。保存も効くので後で・・・と 思っているうちに3週間分くらいたまってしまい、さてどうするか?となることもしばしば。
 昨日、思い 立ってたまっていた里芋で芋餅を作ってみました。里芋を柔らかくなるまで蒸し(茹でたりレンジでチンでもOK)、潰して片栗粉を加え、ちょっと多めの油で両面をこんがり焼きます。焼きたてはカリッともちもち。冷めても里芋独自のしっとり感が際立ってなかなか。昨日はみたらしと小豆でデザートっぽく食べましたが、きのこ餡などと 合わせれば立派なおかずにもなりそうだし、甘辛ダレに絡めてお弁当にもよいかも。おやつにはシンプルに塩や醤油でいただくのも美味しそう。主人からは「可能性を秘めている!」との評。
 作り方は簡単だし、アレンジが効くので、まとめて作っておいて冷凍保存しておくのもよいかもしれませんね。
 あっ!ちょうど里芋の追加注文受付中ですよ~!


●キッチンから(HADDY)
母方祖母方が代々尾張生まれ尾張育ちの身としては、尾張の味を受け継いで伝えていきたいとときどき思います。今週は味噌カツ(もどき)、煮なます(もどき)を作ってみました。・・・納得いかない出来でした。祖母がよくやっていた調理法で、料理名は覚えていないのですが、出汁をひく昆布や鰹節をそのままぶっこんで食材と一緒に炊くというものがありました。あらかじめ出汁をひく手間を省いた、京都方面の「当座煮」と同じようなものだと思います。今の季節なら、乱切りした里芋と人参、昆布、鰹節、砂糖、酒、みりん、醤油に水ひたひたを入れて火にかけてあくを取り、あとはストーブにかけておけば手軽に温かい煮物ができあがります。大根やじゃがいもでもできます。手早く簡単に、おいしく 。郷土料理の知恵は地味ですが実用的です。要は手抜きです(こういうと厳しい方面からクレームが来そうだ)。
by kurashilabo | 2016-02-17 08:39 | 鈴木ふみきのコラム

 今日、犬も猫もペットと呼ばれている、ほとんどの人はそのことに何ら違和感をもたない。しかしペットということばが一般化したのはさして古いことではない。確かではないが記憶では1970年代頃からで、それも当初は「お座敷イヌ」的な過剰なかわいがりを嘲笑するようなニュアンスがあった。むろんそれまでも犬も猫も飼われていたし、かわいがられてはいたが、それでも犬は犬、猫は猫の分際で、「全的に人に属している」訳ではなかった。病気になっても精々暖かく静かな場所に置かれて頭を撫でられるのが関の山で「イヌネコ病院」に連れていくことなどほとんどなかった。そもそも犬も猫も拾うかもらうもので買うものではなかった。去勢も一般的ではなかったし、テキトーに間引かれていたのである。ここでの言葉を使えば犬も猫もまだ「縁側、ないし庭的」エリアの存在者で人間界に属してはいるが他方、犬としての、また猫として自然性と論理を生きていたといえる。(犬は庭に鎖でつながれているという不幸の中にいたがそれには歴史的な理由がある。その問題はここでは省略)

 犬猫の「ペット化」は70年代以後「幾何級数的に」進んで今ではそれが普通のこととなっている。それは社会から「縁側ないし庭的」空間が失われていった歴史と明らかに対応している。彼らが生きてゆくには「ペット」という以外のありようがなくなってしまった。注意しなければいけないのは、そのペット化は飼い主をペット化するということでもあるということだ。人と動物(家畜)の関係は常に双方向的で合わせ鏡のようなものである。犬や猫が「縁側ないし庭的」空間から切り離されて、自然性を失うということはその飼い主を自己完結したプライベートな空間に閉じ込めるということでもある。ペットと飼い主が形成する世界は全くプライベートなもので自然にも他者にも開かれていない。

 「縁側ないし庭的」な場とは、この農場のように「手仕事として」作物を育てたり動物を飼ったり、小屋を建てたり、色々な人がワイワイガヤガヤと出入りしている場所だ。昭和30年代までの農家をモデルにして言えば、文字通り縁側や庭先から始まり、田や畑もそうだし、里山もそうだった。濃淡の差はあれ、そこは「庭的」な場所で、人間の働きかけと管理の意志に貫かれた場所ではあるが、同時に自然(野生)もまた力強く自らを開示していた。人と自然がせめぎあう両義的な場所、風土、そこはまた共同体的な空間で、自分という個でありつつそれがそのまま他者へ社会へ開かれていた。良くも悪しくもプライベートな個、「私」はありえなかった。考えてみればそこでこそ犬は犬であり、子どもは子どもであり、川は川、山は山であり得たのだ。

 昭和30年代以降、「縁側ないし庭的」空間が失われていったのは言うまでもなく市場経済の論理が田舎の草木一本に至るまで貫徹されたからである。「近代化」というのは贈与をベースに織りなされていた人と自然、人と人の関係を交換経済の論理一本で再編成するということであった。私たちはそれこそが「進歩」だと誤解していたと思う。そしてその結果、人々はペット化された個、経済用語でいえば単なる消費者でしかなくなった。そこでは皆、ごく私的な関心を生き、私的な言葉をささやいている。それは自然にも社会にも開かれていかない。「言葉が収縮し、躍動しなくなり」「言葉の芯、怒りの芯」が無くなったとすればそういうことと無関係ではないと思う。私たちは「他者」も「自然」も「社会」もどうでもいい「私」を生きているのである。

 いや、むろんたまごの会も暮らしの実験室も、その「他者」や「自然」「社会」を取り戻そうというもがきではあるのだけど。 S
by kurashilabo | 2016-01-30 15:16 | 鈴木ふみきのコラム

 新聞のインタビューで作家の辺見庸氏がなかなか刺激的で重いことを言っている(朝日新聞朝刊1月21日)。それは自分もうすうす感じていて、感じてはいるがうまく言えなかったところでもある。

 例えば昨年の国会前のデモについて「…『冗談じゃない、あんなもんかよ』という気がしますね。…なぜ国会前デモのあとに行儀良く道路の掃除なんかできるんでしょうかね。…安倍政権への反発というのはあるでしょう。しかしどこか日本的で、むしろ現状維持を願っているような感じがしますね…」「…『何としても社会そのものを深いところから変革したい』という強いパッションがみえない。『怒りの芯』がない。それは言葉の芯とともにどこかに消失してしまったんでしょう。この傾向は70年代から幾何級数的に進んできたと思います。市場経済の全面的な爛熟というのでしょうか、それとともに言葉が収縮し、躍動しなくなったことと関係あるかもしれません…」

 昨年の安保法制反対の国会前デモ(?)にはボクも3度ほど出かけた。しかし正直言えば何の手ごたえも感じなかったし、それで何かが変わるとも思えなかった。阻止できるともむろん思わなかった。声高に語られる言葉もあれやこれやのパフォーマンスも、聞き慣れ見慣れたものばかりで、新しい何かが生まれつつあるという感触もまた持ちえなかった。では他にどのようなやり方があるのか、どこに新しいものがあるのかと問われれば何も答えられないので黙して歩むしかなかったのだけれども。それにもましていぶかしく思ったのは自分の中に怒りの感情がない、本当は怒っていないということだった。むろん反発はある。これはマズイことになりそうだという。しかしそれは怒りではない。そして周りを見渡せば、これも老若男女、様々なパフォーマンスを見せてはいるがどこか物見遊山的で、怒りがない。デモの交通整理も主催者と警備側が話し合いながらやっている。「フランスではデモはそういうもの」というけれども茨城くんだりからシンドイ身体を引きずって出掛けてこれではなぁ…。
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 いや言いたかったこと、辺見氏の言葉に刺激されたのはそこではない。その後半のところ、「怒りの芯」「言葉の芯」がどうして消失してしまったのか、どうして言葉が収縮し躍動しなくなったのか、70年代から幾何級数的に進んだというそれは市場経済の爛熟とどういう関係があるのかというところである。辺見氏はそこをこの社会が必要とするのは怒る人間とか、変革する人間ではなく「購買者、消費者としての人間」だからだと言っている。それでいいと思うけれども同じことをボクは「縁側ないし庭的」空間が失われたからだと言ってみたいのである。(時間切れで続く) S
by kurashilabo | 2016-01-24 15:03 | 鈴木ふみきのコラム