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週報より:『人新世の資本論』感想 井野博満

(会員の井野さんより、週報に投稿いただいたものを掲載します)
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 ”ORGANIC FARM WEEKLY ”Vol.821号(2020/12/5)の「イバコラム」拝見。札幌のナガタま・さんも「湯浅欽史さんを偲ぶ会」へのメッセージでこの本の一節を引用し、偲ぶ会の受付近くでも誰かが話題にしていたのですね。
 皆が読んでいて評判になっている本は読んでみたいという一種のミーハー精神を、私も人一倍もっていて、『人新世の「資本論」』(斎藤幸平、集英社新書、1020円)を早速買って読みました。書いてあることにはほとんど同感です。すっきりと思い切った論を臆せず展開するすばらしい若手(1987年生まれ)だなと感心しました。自分の著書に「資本論」と銘打つとは、相当の自信家なのでしょう。

 著者は、1年前にも『未来への大分岐-資本主義の終わりか、人間の終焉か?』というセンセーショナルな表題の本を編集・執筆しています。こちらは、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンという世界的に著名な三人の論者との対談をまとめたものでした。これも結構面白かったのですが、対談相手の議論の流れに応じての発言をしているので、斎藤氏自身はどういう考えであるのか、はっきりとはつかめないところがありました。その点、本書は主張が明確です。

 人間の活動が限界を超えて地球環境を破滅させつつある現状を「人新世」(ひとしんせい)という最新の地球年代史用語で示し、経済成長から逃れられない資本主義にはそれを止める力はない、晩年のカール・マルクスが提起した脱成長コミュニズムにしか解決の道はない、と結論しています。驚くほどストレートで「過激」な主張です。
 本書の基本の道具立ては、目新しいものではありません。全世界を危機に陥れている環境破壊の凄まじさは、1970年代の『成長の限界』(メドウズ、1972)で予見されていたことです。それにもかかわらず成長を止めることができず、気候変動の危機の瀬戸際に来てしまったことが、現在の新しい事態と言えばその通りです。
「資本論」におけるマルクスの主張やエコロジー思想は、1960年代から1970年代にかけて思想形成をしてきた私にとっては、馴染みの主張です。しかし、社会主義国家の崩壊や変質によってマルクスの思想が打ち捨てられ、エコロジー思想もまた1980年以降の新自由主義思潮のもとで片隅に追いやられて、現在の追い詰められた現実があります。
 なぜそうなってしまったのか。著者斎藤幸平は、旧来のマルクス主義やそれに親和的な運動については否定的評価をしています。前著の対談の締めくくりには、「「社会運動・市民運動が大事」という左派の念仏が人々の心に届かなくなって久しい」という一文があります。それに違いはないけれど、頭ごなしにこう書かれると、私などは反発したくなります。70年以降、(たまごの会をふくめて)さまざまな社会的活動・運動が試みられてきて、その中には新しい秩序を生む芽になるすばらしい試みが多々あったはずですから。しかし、確かに結果は無残な現実が残りました。「力及ばず」だったのか、やり方が間違っていたのか。
 マルクスの思想のなかで著者斎藤幸平が大事だと考えるのは、「コモン」あるいは「コモンズ」(共有資源)という概念です。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが提起(『マルチチュード』、NHK出版、2005年、などを参照)して注目され、日本でも一部の人たちには馴染みの考えです。そういえば、『場の力、人の力、農の力。たまごの会から暮らしの実験室へ』(茨木泰貴、井野博満、湯浅欽史編、2015)の出版社の名前は「コモンズ」です。マルクスが想定した共産主義(コミュニズム)社会は、ソ連型の全体主義的独裁国家ではなく、人びとの協働によってつながる助け合いの社会=コモンだと著者は言います。「たまごの会」もそういう社会の実現を念頭に置いた活動の場だったともいうことができます。農と食べ物、共同農場、対等な関係性のなかでの運営方式、それらは、コモンの重要な構成要素になるはずです。
 私が関心を持っているのは、そういう共生社会においてどういう技術が中心になるのかの問題です。産業革命以来、石炭などの化石燃料を動力としてきた技術の体系をどう変え得るのか、という問題です。この本では、『エコロジスト宣言』(緑風出版、1983)などで知られるアンドレ・ゴルツ(1924-2007)の晩年の考えを紹介しています。ゴルツは、「開放的技術」と「閉鎖的技術」という区分を立てます。開放的技術は、コミュニケーションや協業、他者との交流を促進する技術であり、閉鎖的技術は、人々を分断し、生産物やサービスを独占する技術であると述べています。閉鎖的技術の代表格である原子力発電は、情報が秘密裏に管理され、トップダウンの政治を要請する。このように、技術と政治は結び付いていると指摘します。
「閉鎖的技術」と「開放的技術」という区分は、湯浅欽史さんが反技術の思想のもとで実践した活動領域の区分、①技術批判・解体を実践する自分の専門分野(土木工学)、②近代の技術が貫徹しにくいイキモノの属性が直接効いてくる営みの場(子育て、食と農)、という区分にほぼ重なっているのではないかと私は考えます。
 このことに関連して難しい問題は、産業革命が生んだ分業の問題です。職人の技に依拠した手工業から、科学的知識にもとづく分業・協業という工場システムへと変わりましたが、この分業の原理は今も続いています。それは、人格と一体だった労働を分解し、単純労働と精神労働、肉体労働と頭脳労働という分化をもたらし、技術者という階層を生み出しました。このことが閉鎖的技術の根幹にあります。これをどう変えてゆけるのか。
 最近発掘された晩年のマルクスの著作や研究ノートから、著者はマルクスがエコロジーを重視し生産力重視の進歩主義を捨てていたことを明らかにしたと述べていますが、マルクスの後継者には、ごりごりの国家社会主義者たちだけでなく、このゴルツのようにエコロジーとの結合を考えてきた人たちもいたことは確かです。
 さて、著者は冒頭から、「地球温暖化」は経済成長を前提とする資本主義システムでは防ぐことは出来ない、と強調しています。確かに、今、各国が約束している温暖化防止対策としてのガソリン車全廃や2050年までの二酸化炭素排出ゼロなどの政策が、各国の国益や巨大資本の利害を背景としたものになっていて、トゥーンベリ・グレタさんなどの若者世代から本気なのかと痛烈な批判を浴びています。1990年代からの「持続的開発」(Sustainable development)が環境危機の悪化防止と二酸化炭素排出量の削減に成功しなかったという負の「実績」もあります。
 私は、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の地球温暖化予測が絶対的に正しいとは確信していません。この予測法の手順を自分では追認できないからです。しかし、世界中の多数の専門家たちが築き上げた予測を無視することはもちろんできません。となると、予防原則(悪いことが起こる可能性があればそれを防ぐ努力をする)の立場に立って、国際協力の下での温暖化防止対策の取り組みを重視すべきと思います。
 しばらく前までは、もっとも害のない廃棄物質だと考えられていた二酸化炭素の排出量が地球の限界にまで達したということは、人間の活動が環境全体にいかに大きな影響を与えているかを示すものです。しかも、例えば、ある国の森林伐採や鉱山の廃液による環境破壊などの深刻だが個別的な問題と違って、地球全体の問題として出現しているゆえに、すべての人びとが責任を持たねばならない国際的課題になっていることの意味が大きいと考えます。国際的協調が不可欠な課題として立ち現れているからです。
 気候変動対策の中心的課題は、大量の化石燃料消費システムからいかに脱却できるかですが、化石燃料は産業革命の基本的エネルギー源です。それを使わないということは産業革命後250年の技術の体系を根本から見直すということです。電力に限ればすべてを太陽光や風力などの自然エネルギーに変えることはそう難しくないように思われます。しかし、船や飛行機の運航から化石燃料を追放することは簡単ではありません。長距離輸送を減らすしかないでしょう。また、鉄鋼製錬に石炭を使えず、プラスチックの原料である石油が使えないとなれば、産業構造が一変します。大量輸送が無くなり大量生産がなくなれば、大量消費・大量廃棄もなくなります。マイクロプラスチックによる海の汚染もなくなります。そういう資源消費の縮減に経済成長を前提としてきた資本主義が適応できるかどうか。気候変動対策を成長戦略の一環としておこなうなどと寝言を言っているスガ内閣がまともに対応しないだろうことは目に見えています。

 感想を簡単に書くつもりが、長々と持論を述べてしまいました。この著書が最後に述べている「脱成長コミュニズム」の柱は、使用価値経済への転換、画一的な分業の廃止、生産過程の民主化、エッセンシャル・ワークの重視、などで、いずれも納得できるものです。また、この間、生活と環境を大切にするさまざまな市民の活動が育んできたものでもあります。
 著者斎藤幸平は、前著では従来の左翼運動に否定的な書きぶりでしたが、この新著にはそういう嫌味はありません。また、前著では、ポール・メイソンの議論に引きずられて、情報技術の進化が資本主義を崩壊させるという類の主張に賛意を表していますが、この著書では資源と環境を重視した議論に立ち返っています。
 著者は、結論的部分で、人びとのなかの3.5%が本気で立ち上がれば世の中を動かす力になるというある政治学者の研究を紹介し、市民活動へのエールを送っています。この著書を「暮らしの実験室」の会員の方がたはじめ、多くの人に読んでほしいと思っています。

追伸。茨木さんが週報Vol.822(2020/12/12)で、この本の感想として、「そうか、たまごの会だったんだ!」と書いておいでです。そう言ってもいいのでしょうね。鈴木文樹さんの「農場=神社論」は、会の精神的存在意義を述べたものですが、茨木さんは未来につながる会の社会的存在意義を「目が覚める思い!」で気づいたということですね。いいですね。


by kurashilabo | 2021-01-05 09:24 | 週報からの抜粋