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【会員さんインタビュー】 杉原せつさん

やさと農場がたまごの会として始まって以来ずっと支えてくださっている杉原せつさんは、大正生まれで、女性の映画監督がまだほとんどいなかった頃から映画の世界に携わってきました。時代を作ってきた方として、昔の農場のことのみならず、杉原さんのライフワークであった映画のお話も伺いました。

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【プロフィール】
お名前     杉原せつさん
住んでいる場所 東京
農場歴     45年(たまごの会開始以来)
好きな物    おいしいもの


Q. 杉原さんは映画の監督などをされていたそうですね。どうして映画を撮ろうと思ったんですか?

A. 23、4歳のときだったかな。わたしがブラブラしていたときに、日本映画社に勤めていた友達のお父さんから声をかけられました。「せっちゃんブラブラしているのはもったいないよ、制作の募集をしているから応じてみないか」って。私は冗談じゃない、映画は観るばかりで作るなんてとんでもない、だいたい映画をつくるところに女の人なんていないじゃないかと言ったんです。そうしたら「女の人がいないんだからせっちゃん応募してみなよ」と返されました。それで受けてみたんです。
筆記試験の次が面接で、絣の白い着物に博多の赤い帯と、自分で作った帯留めで入って行きましたらね、審査の人たちがびっくりしてました。こっちはどうせ女性だから落とされるだろうと平然としていて、いろいろ聞かれたのに適当に答えてたんですけど・・・それで受かっちゃった。
映画の仕事を覚えるのは大変でした。一人前になるまでは十年以上かかりました。ともかく教えてもらうなんてことはない。先輩からしてみればいちいち教えてたら自分の仕事ができませんからね。映写機にフィルムを巻き付ける方法とか、現像したフィルムを井戸水で洗うのとか、ほうぼうどこへ行っても難しいことばかりでした。
そんなことですから最初の3、4年は、もうこんな仕事は向かない、明日辞めようか今日辞めようかとそんなことばかり考えていました。でもせっかく紹介してもらった仕事を辞めるのはどうかと思ってましたし、それに私が辞めちゃったら女の人が誰もいなくなっちゃうでしょう。女の人がいない世界なんてどこにありますか。映画は歌舞伎とは違う、新しいことをやっているところなんだから、女の人がいないなんてのはおかしい、私が頑張らなくちゃダメだと思いました。それでようやく決心がついて、ずっと続けていきました。
腹が座るまでは「おい杉原!」なんて言われても何も言い返せなかったですよ、向こうは先輩ですから。決心がついてからは「何よう!」なんて返していました。それから、自分が強くなってみると男の人は見ていて面白いですね。まあー、だらしない!私ははじめニュース部にいたんですけどニュース部の男の人ってのはだいたいだらしない。ドキュメンタリーのほうには優秀な男の人がいっぱいいましたけど。私がニュース部のあとに短編映画の助監督になった頃に、ニュース部ではたくさんの人が辞めさせられたんですよ。アメリカのレッドパージで、アカは辞めさせろって。みんな共産党員でしたから。それでもう男の人はできることがない。生まれたての赤ちゃん背負って家にいるの。女の人は仕事なくなってもできることはたくさんあるでしょう。

Q. たまごの会の最初の頃の話を聞かせていただけますか?

A. 私は農場開きのときには映画の監督の仕事があって出席できなくて本当の一番最初って見てません。一か月ぐらい経ったころにようやく、松川さんと一緒にやってきました。そのころは農場はまだ今のようにはできてませんでした。松林を伐るところから始まりましたからね。土地を平らにして、松の根っこを取るのがもう大変でした。豚小屋も鶏舎も、柵だけで屋根がなくて、まだ粗末なものでしたね。『不安な質問』はもう観ましたか。あれを見ればたまごの会がどんなだったかが分かります。
そのあとの分裂のときが大変でした。あれは農場をどうやってつくっていくのかという問題でした。そうして主だった人たちが出て行ったんですけど、私たちはいったいどっちについて行けばいいのやら。やっぱり農場は続けていかなきゃいけないということで、私は農場に残った人たちのほうへついていったんです。
昔からのスタッフで今いるのは鈴木文樹さんだけですね。文樹さんはちょうどその分裂騒動のときにスタッフになったんですよ。分裂の集会のときにわたしのそばに来て「杉原さん、僕は今日ね、入会しようと思うんだ」って。入会しようったって、これから会を散会しようって言ってんのに。それでも「僕は僕なりの考え方でやっていこうと思うんだ」って言うから「じゃあお入んなさい」って、それでスタッフになったんですね。
前の分裂したときのたまごの会と今は全然違いますね。スタッフも新しい人ばかりで。わたしなんか古い人間は行ってもやることできないですよ、もう体も動かないから。昔はよくはたらいたんですよ。映画の仕事をして、農場に行ったらまた農場の仕事をして、もう体くたくたになってそれでもやってのけたんだから。若いってすごいもんですよ。

Q. 好きなものをみなさんに伺っています。杉原さんの好きなものは何ですか?やっぱり映画?

A. 映画は今はわたしの世界からは離れちゃってます。だから映画は観ません。好きなものといえばやっぱり美味しいお料理。わたしなんかは昔の人間ですから今のものは嫌ですね。子どものときに住んでいた東京の家の近くに魚河岸があってそこに新鮮なのがサクで置いてあって、それを食べたのを覚えています。ともかく良いものを食べて育ちました。だから(脚を骨折して)荻窪病院に入ったときに何が嫌だったって、食べ物が嫌でした。病人は良いもの食べなきゃいけないのにね。病院側は患者に良いと思って出してる食べ物なわけですけど、それを拒否して食べなくてもリハビリの成績はどんどん上がっていくでしょう。病院は不思議な人間だと思っていたんじゃないですか。ここ(老人ホーム)では週に3回ぐらい餅菓子が出て、それは本当の餡子を使っていて美味しいです。
昔のものが続いて良いものがいっぱいできます。農場では田んぼなんかも昔のような作り方でやっているでしょう。今は何でも機械化。機械化したほうが良いものと良くないものがあるわけですけど、そういうものを見分けることも全然できないで、ただたくさん作れば良いという考えでもって、人の手が簡単になって機械が全部働いてくれると思っているんでしょうけど、できたものはやっぱり人の手が作ったものと機械が作ったものは全然違う。そういう違いがわかる人がいなくなっているのも事実ですね。
これからの世界は若い方が作っていくものですから、若い方が自由にどんどん変えていったら良いんじゃないでしょうか。ただその変わり方が良い方へ変わっていってくれたら良いなと思います。まあ自分で思うようには世の中いかないですから、よっぽど意志の強い人でないとね。たまごの会の人たちなんか本当に意志が強かったです。みんな頑固一徹で。だからここまで続いたんだと思います。
たまごの会の何%かを文樹さんが受け継いで、さらに若い人たちが共感して入ってきて、だからあそこは良いものが続いているんだなと思います。


by kurashilabo | 2020-07-27 11:40 |  L 農場の会員さん