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ふみきコラム20170826 人とケモノ

 害獣の駆除や、それとの関連でジビエの普及といったテーマは今や農業新聞だけでなく田舎系の雑誌でも定番の話題である。そこではどのような方法や体制でやるのがより有効か、ジビエとしての利用をどう進めたらいいかということは話題にされても駆除自体が必要なのかどうか、あるいはそれに伴う倫理の問題などはほとんど語られることがない。駆除しなければ大変なことになる、駆除は正しい、それは語るまでもない前提なのである。

 駆除とは要は殺すことである。筑波山系で一番問題となっているイノシシについていえば鉄砲で撃つよりもワナ猟が多い。箱ワナはいわばネズミ捕りを大きくしたようなものを想像すればよい。捕獲した段階ではむろん生きているから電気を利用した刺し棒のようなもので殺すようである。くくりワナはいわばトラバサミのイノシシ版でケモノ道に仕掛け、踏むとワイヤーの輪が足をとらえ、逃げようとあばれればより強くしまるという仕掛けである。これも刺し棒などで恐怖と苦痛で暴れるイノシシにとどめを刺す。イノシシも必死だから、足だけを残して逃げ去っていたというような話も伝え聞く。
 数時間のうちに処理施設に持ち込んで血抜きと内臓処理すれば食肉として利用することができる。しかしその多くは専用の焼却場に持ち込まれたり埋却されたりするようである。その際、駆除した証拠としてシッポ(耳?)を切り取り、後にその数に応じて報奨金を受け取るという仕組みである。
 猟師が犬を伴って山に入り、ケモノを撃ち、その肉をいただくという「殺し」は古来よりの生業として今もある。そこに現代なりの問題はあるにせよ彼らの語りを聞くと、その論理と倫理を理解することができる。駆除としての「殺し」はそれとは別物だと思うのである。駆除にあっては有効性や数のことばかりで生き物としてのイノシシに向き合うという姿勢はそもそも排除されている。はじめから「害獣」なのである。

 このことはハンターと言われる人々へのボクの微妙な違和感とも関連している。ハンターは猟師ではない。ハンターは趣味として(娯楽として)動物を撃つ(魚釣りと同じで実益も兼ねているのでしょうが)。彼らが害獣の駆除に駆り出される。思い入れが過ぎるかもしれないが、本物の猟師は害獣の駆除には加わらないのではなかろうか。それはともかく冬になるとオレンジ色の服を着て何匹もの犬を引き連れたハンターの一群と畑で出合うことがある。彼らは往々にして傍若無人で畑に平気で入り、近くに家があっても散弾銃を撃つことがある(法律では人家から300メートル以内の発砲は禁止されている)。里での彼らの主な獲物はキジだが、このあたりでしばしば見かけるキジの多くはハンターのために放鳥されたものだ。(アユ釣りのアユが放流されたものがほとんどだというのと同じ)。殺すために放鳥するのである。これも嫌いだ。

 イノシシは畑に入り農作物を食ってしまうから「害獣」と言われる。しかし小学生の話のようになるが、この畑はウチのもの、このイモは俺のものというのは人間界のルールだ。だから他の人が入り込み食ってしまえばそこに罪が発生し罰を受けることになる。イノシシはそのルールに従って生きている訳ではむろんない。だからそこに罪が発生することもない。何の罪もなくそこに自然そのものとして存在するケモノを殺すのは難しいものである。それを正当化する論理も倫理もないからだ。人は平常心で人やその同類であるケモノを殺せるようにはできていない。(タブーが働いている)。そこで「害獣」というレッテルを貼り、食いものを盗られたウラミとともに駆除、駆除(殺せ殺せ)と騒ぎたて、それを正義の如くにしてしまう。正義となれば人間、かなり残虐なことでも平気でやれる。現在の害獣駆除はかなりそれに近いものになっている気がする。 S

by kurashilabo | 2017-08-26 15:42 | 鈴木ふみきのコラム