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ふみきコラム20170218

 「捕獲獣広域で焼却―手間減らし処理推進」という「日本農業新聞」(2月9日)の記事が気になった。「害獣」をハンターが捕獲してもジビエにまわるのは1割程度で、多くは埋却や焼却処分されることになる。しかしハンターも少なく高齢者が多いのでその処理が負担になっていたが、全国的に「害獣専用の焼却施設」が建設されていて(1億6000万円位とか)狩猟者から歓迎されているというものだ。

 1960年代以降人がヤマから引き(ヤマと言えば村では今日いうところの里山のことだ)、山沿いの田畑から引いていき、その空白域にイノシシや猿や鹿が進出してきていることは先回触れた。90年代に20万頭位だったイノシシは現在100万頭に、30万頭だった鹿は300万頭位になっているという。当然ながら全国的に農業被害が多発し、「害獣駆除」が地域の猟友会に依頼されることになる。「駆除」が主目的なので報奨金のようなものがでる(イノシシ1頭7千円位?)。食肉はオマケのようなものだが、処理施設が遠かったりして鮮度が維持できない、処理しても食肉としての利用者がいない等々の理由で多くは埋却したりゴミとして焼却することになる。(ジビエはまだ十分には産業化されていない) S

 このことは以前から聞いてはいたが、殺しては埋め、殺しては焼却するするというゴミのような扱いにどうしてもなじめないものがある。もったいないといえばもったいないし、かわいそうといえばかわいそう、冒とく的な何か。そこには人間の根本の倫理に抵触するものがあるのではないか。猿についていえば、食肉とする習慣がないので、一部が医学実験用に利用される他はこれも埋却ないし焼却処分される。捕獲しては殺し、焼却炉に放り込むシーンを想像してみてもらいたい。「害獣駆除」の実際はそのようなもので、新聞によればどこぞの焼却施設では年間5000頭の予定が利用者が多くて1万頭を処理しているのだという。これは「ではどうすればいいのか」という問いとはレベルの違う話しである。

 「害獣駆除」はそうまでして本当に必要なのであろうか。彼らは人を襲いに来ている訳ではない(接触してケガをする人はいるが殺された人はたぶんいない)。その罪は稲を食い倒したとか、カボチャを食われた等々の農業被害がほとんどだ。むろんそれはそれで問題だ。しかしその被害と駆除のナマナマしさがバランスしていない。

 「農業被害がある」といえば何をしても許されてしまう精神風土がある。農家から総スカンを食いそうだが、たかが農業被害ではないか、と言ってみたい。それにこれはもっと言ってはいけないことだがその農家の多くは農業で飯を食っている訳ではない。勤めていたり、年金収入があったりして被害にあっても食うには困らない。獣害がでるような地域での農業は特にそうである。田んぼの被害とて、(一部の専業稲作農家を除けば)稲作収入をアテにしている農家などほとんどいない。獣害で離農とはいってもそれはただのきっかけにすぎない。「農業被害何百億」などという報道は数字のマジックで現実は違う。

 そもそも野外でする農業には「被害」はつきものだ。天候不順であれ、病害であれ、虫害であれ。それに獣害が加わったということだ。むろんやっかいなことではあるがそういう時代に入ったということなのだろう。長い間、人間のエリアに暮していれば野生獣と接触することはほとんど無かった。それは田舎に人とエネルギーが満ちていたからだ。今また私たちはハクビシン、アライグマ、タヌキ、イノシシ、鹿、猿等々と頻繁に出会うようになった。野生獣に取り囲まれている。彼らとの出会い方をよく考えてみることは私たちの未来の質に関わる大事なことなのではなかろうか。 S
by kurashilabo | 2017-02-19 11:06 | 鈴木ふみきのコラム