2017年 01月 15日
ふみきコラム20170114
そういう大字に対して小字はごく身近で狭い地名で、大字の中に小字は百以上あるのが普通だ。その分小字にはその土地に生きて来た人たちがそこをどういう場所として意識していたのか、その痕跡が残されていて興味深い。時にはクリアに、時にはおぼろげに。むろん意味不明も多いし、区画整理などで消えてしまった地名も多いのだけれども。
「開拓地」の田のあるところは「ヒゴシイリ(日越入)」というが、ヒゴシとは谷の間で狭くなっているところ(の道)というような意味らしい。その入口ということである。実際、そこから先は次第に谷は狭くなっていき、道は両側に険しい山の迫る沢沿いの細道となる。その細道が(この道は現在ほとんど消えている)筑波山の急斜面に入るところを「テバイ」という。「手這い」であり、手で這い上るほどの急坂ということである。この道で筑波山を越えると筑波山神社周辺に至り、中世までは重要な道だったようである。
県域で中世最後の合戦となった「手這坂の合戦」はこのあたりで戦われ、二千とも三千ともいわれる兵が入り乱れての戦だったという。戦国の終わりごろのことだが、現在の八郷側の国人(こくじん。小幡氏 片野氏等)は水戸から県北を地盤とする戦国大名佐竹氏に組しており、筑波山の向こう側(現つくば市や桜川市)は小田氏の根拠地だった(織田信長の織田氏とは無関係)。この合戦で敗れた小田氏はこれを機に衰退し、県域はほぼ50万石とも80万石ともいわれる佐竹氏の領国となる。そのような意味で、地域史的には重要な合戦だったのである。周辺には長峰砦だけでなく「イッセンバ(一戦場)」とか「前棚(砦の前の平坦になった場所)」といった合戦と関係する地名もいくつか確認できる。
ところで田の所有者は近くの「十三塚」集落の人が多いのだが、この地名も何か意味ありげで気がかりだった。しかし『八郷町の地名』によれば十三塚という小字は他にもいくつかあり(農場の裏の方にもある)ごく普通の地名でどうも村境と関係あるらしい。言われてみれば十三塚集落は小幡村の(筑波山に抜ける道の)村境に位置している。村のはずれなのである。現在では村境(近世旧村の)を意識する人など誰もいない。しかし近世までは日々の暮らしはムラ内でほぼ完結していていて村境はムラにとっては国境のようなもので、その向こう側はいわば他国だった。そういう場所として悪霊が入ってくるのを防ぐための呪術が行われたり、子どもが生まれた時の胎盤を村境の辻に埋めたりという習俗があったと聞いたことがある。村境は常に意識され警戒されている場所だったのだ。そこをどうして「十三塚」と呼ぶのかは残念ながらもうわからない。何かしら呪術的な意味があるのだろう。
当の十三塚集落には、その名前の由来として「大ネズミと12匹の猫(?)」の伝説が残されているが、この話は十三塚という地名の本当の意味が人々から失われた後、子どもにおもしろおかしく語って聞かせるための「お話し」の類として聞いておけばよいであろう。