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ふみきコラム20170107

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞやさと農場をよろしく。

 昨年は正月早々入院でしたが今年は幸いにも家(山梨)でのんびりと過すことができました。暮れにはアーだコーだと一人突っ込みを入れながらついつい紅白歌合戦をみて、元日にはお雑煮とおせちをつついて全く平均的な日本人でありました。子供たち(もう子供ではありませんが)も皆帰省し、めずらしく家族全員が揃ったので記念写真をカシャ。あとは何もすることがなく無く、子供も独立してそれぞれ仕事をもてば特段の共通話題もないし、初詣という気分でもないので子供たちとその母親はイオンモールに初詣に行って日本資本主義に貢献し、小生は買いたいものが何も無かったので一人ファミレスで読みかけの小説を読むというどうしようもない父親ではありました。家族でのんびりというのも楽ではないのです。結婚(式)とか孫がどうのという話が出たらどうしようと恐れていましたが、幸いにもそんな話しはカケラも出ず今年もよいスタートとなりました。(いや、出てもいいのにカケラも出なかったというのは意図的に避けているということか…。)

 ところで小生、昨年あたりから字がボヤけて新聞なども読みづらくどうも老眼になったらしい。最初は車を運転していて遠くが意外とクリアーに見えるので、「オッ、ウコンはすげぇ、近眼が治ってきてる」などと喜んだのですが、新聞がボヤけて読みづらくなっていることに気付き「ひょっとしてこれ老眼?」と老眼鏡を借りて掛けてみるとびっくりするほどクリアー。いやはやついに老眼か。もともと読書家ではないがそんなこともあって活字離れが進み、最近は時間があればDVDをながめるばかり。

 しかし新聞で「土の記」(高村薫)の書評を読み、これは読まずばなるまいと正月の時間つぶし用に買い求めたのでした。高村薫は初期の「マークスの山」がとてもおもしろかったので、その後も新刊が出ると手にとるのですが、以後は緻密さと粘着力が増していくばかりで「照柿」はどうにも感情移入ができず、「太陽を曳く馬」など読み通すのが苦痛でさえありました。今回の「土の記」は文体に慣れるまでは疲れましたが慣れたらサクサクと読めるようになりました(まだ途中ですが。)

 しかし正直言って一般の人がこれを読んでどうおもしろがることができるだろうという要らぬ心配をしてしまいます。どこまでいっても何か事件や情事が起る訳でもなく、山間の棚田を作る男の心に去来する山の声、生き物の声、土の手ざわり、死者たちとの会話、ムラの風景などが延々と続いていく。男はもとシャープに勤めていた理系で、すでに70代になる男(山間の旧家にムコ入りし、妻は不可思議な事故で死んでいるという設定)であるとはいえ、「幼穂の二次枝梗原基が顔を覗かせてから二日後の七月三十一日、予定通り穂先が0.5ミリほど膨らんで穎花原基の分化が始まった。集落の棚田では一回目の穂肥を施す日が八月三日、もしくは四日といったところでほぼ揃い・・・」といった具合で、知っていればついていけるし笑えるが、知らなければ何のことやらという農事やムラの日常の記述が続く。

 小説としての良し悪しなど全く分かりませんが、考えてみると農事そのものやムラの暮しをその内部から記述しようとした小説は未だかって無かったのではなかろうか。近代的自我が捨て去ってくる背景として描かれるばかりで。それは人々の心が田園や山里、土に向かっている現代という時代と高村薫という小説家にしてはじめて為し得た偉業といえるのかもしれません。
by kurashilabo | 2017-01-08 10:40 | 鈴木ふみきのコラム