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ふみきコラム 複雑な生態系から無色の空間を切り出す

 「開拓地」に犬のシロを連れていくことが多い。いつも一緒にいたいから、という訳ではない。開拓地は他の誰も来ないところなので放しておいても文句を言われることがない。暑い一日の仕事を終えたあと、また犬の散歩となるともうエネルギーが残っていない。それで開拓地でのドッグランで散歩は省略するのである。こちらが作業している間、存分にドッグランしていればいいのに、ところがどっこい実にツマラナそうに寝そべっているだけ。そして時々「早く帰ろう」的な視線を送ってくる。彼はどうやら開拓には興味が無いようなのだ。藪を切り拓き、竹や木を倒してそこに広々とした空間が出現すると人間は「イヤー、清々したねぇ」という気分になる。たぶん彼らにはそういう感覚がない。そこに人間と人間以外の動物との越えられない深い断絶がある。

 開拓前の自然を手に取ってよく見ると、実に複雑な構造をしている。竹や木や大動物たちの下には無数のアリやら何やら訳のわからぬ虫がうごめき菌類は白い菌糸を伸ばし、少し土をすくってみればそこにもまた別の世界が広がっている。超複雑系だ。5億年前までの地上はもっとシンプルだったと言われている。地上に生物は進出していなかったから土もなく、岩石と砂と水があるだけだった。生物たちが5億年かけて積み上げてきた生態系はこざかしい人間の知恵を越えている。いや、そんなことはまぁどうでもよい。開拓はその超複雑系でコントロールの効かない自然の中に清々とした無色の空間を切り出すことだ。道を通したり、田を造ったり、家を建てようとして。するとそこに意味が立ちあがり時間が起動する。人間の空間と歩みが始まる。動物たちは巣をつくることはあっても空間を切り出すというようなことはしない。彼らは意味も時間もない自然性の中に生き死にしている。

 空間を切り出しあれこれシミュレーションしながら田を拓いたり家を建てたりするのは理性、合理性の為すところだが、それは大脳の仕事だから開拓空間は大脳が空間化したものだということができる。そのような言い方をするなら元々の自然は身体と対応しているともいえる。人間の身体もコントロールの効かない超複雑系だ。私たちの体は36兆個の細胞ででき、そこで100兆個とも1000兆個ともいわれる細菌と共生しているそうだ。身体という生態系について私たちはほとんど何も知らないし、コントロールすることもできない。知っているのは遠からぬうちにそのシステムは必ず崩壊するということだけだ。人間は生物的には身体という自然を生きながら大脳という人間性を生きざるを得ない存在だ。そこに人間くさいドラマと歴史が生まれる。

 開拓空間と元々の自然の関係は大脳と身体という関係と相同であり、私たちはそこに自分の似姿を見ているのかもしれない。開拓が面白いのはたぶんそのことと関係がある。開拓地からできるだけ自然性を排除し、農業的合理性を追求していけば、その先にはよく圃場整備され、配水もボタンひとつでという風景が広がるだろう。そこにはそこなりのタイプの人間がいる。更にそれを純化していけば都市空間となりIT空間となる。そこは大脳の快楽の世界であり、そこはまたそれに似合った人間を生むだろう。田園回帰という没落を生きるわれわれはいわばそこでの自然性、身体性の欠如に窒息しそうになって脱出を果たした一群だ。そして有機農業といい、自然農法といい、開拓といい、要は開拓空間と自然、大脳と身体の関係の最適解をどのあたりに求めるかということなのであろう。よく整備された棚田や谷津田に時として私たちはある種の「美」を感じとる。もしそれが単なる郷愁でないとしたら、そこにひとつの「解」があるからかもしれない。人為と自然、大脳と身体との関係の。 S
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by kurashilabo | 2016-07-29 12:04 | 鈴木ふみきのコラム