人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ふみきコラム 怒れる鈴木サン

 農場はいわゆる農政とは関係ないところで活動しているので、日頃農場内で農政が話題になることはほとんどない。しかし昔から「農業新聞」をとっているので日々の習慣のように目を通すくらいのことはする。大きな農政の流れはつかんでいたいし。

 ここ1~2年、安倍農政の目玉である「飼料米」をめぐる話題を目にすることが多い。農場周辺でも「エサ米(飼料米)」に転換した田を見ることが多くなった。まわりのコシヒカリよりも一か月くらい遅れて田植えし、管理も粗放的(手抜き)だからすぐわかる。昔からの米作りとは明らかに異質な作り方なのである。田と米作りは昔から農家の人生と誇りそのものであったから米には手をかけ田を荒らさないというのが最後の一線としてあって、それゆえ経済的には見合わなくとも今日見るような美田がからくも維持されてきた。その一線を越えてしまった米作り、むしろ牧草栽培に似た感覚の米作り。
 いや、そのことを嘆いているのではない。田は余っているのだからそこで多収米を栽培し、牛や豚、鶏のエサにすること自体は悪くはない。(多収米とはいってもコシヒカリなどより2~3割多い程度)。しかしそれを補助金で誘導するのはどう考えても合理性を欠くし、こんな馬鹿げた政策があるかと不思議でならない。
 少し説明すると(詳しくは長くなるので概略)政府は2018年度をもって米の生産調整(減反政策)からは手を引くことを決めている。当然米が余り値崩れを起こすことが予想され、現在の日本の中核的農家(いわゆる担い手)が大打撃を受け経営破たんする恐れもある。それを避けるために「田にエサ用の米を作る」ことを政策として決め、エサ米を作れば補助金が出る仕組みである。その点はこれまでの転作奨励金と同じだ。しかし反当り8万円から10万円支払われる。どうしてそのくらいに設定されたかというと(推測が入りますが)米価は今60kg1万3千円くらいだが、現在のエサの中心である輸入トーモロコシは60kgで3千円くらいなのでエサ米を流通させるにはそのレベルまで下げなければならない。その差額の1万円を補助金でまかなうという訳である。普通の米の収量は反当り平均して9俵程度だから反当り9万前後の補助が無ければ農家としては見合わないという理屈である。1ha(約1町歩)にすれば90万であり、10haならば900万円の補助金を農家は手にすることになる。米作りは現在、地域の「ライスセンター」といわれる中核農家(雇用あり)が多くを担っており、このあたりでも30haくらいを耕作するのが普通だ。そのうち3分の1を飼料米に回せば毎年900万円が支払われ、11年で約1億円の補助金が一軒の農家に支払われることになる。全国的にはどれほどになるであろうか。これが社会的に公正といえるのかどうか。(当の農家もこの政策の継続性に大いなる疑問をもっているようだ) 国の財政がひっ迫している時に、ということも問題だが、ザルに水をそそぐように補助金をまき続けなければ維持できない農業とはそもそも何なのか、どこに合理性があるのか、ということである。
 農水省は「家畜のエサは自給すべきだ」という高邁な理想の下にエサ米を推進している訳ではない。転作大豆の場合は大豆の自給率を多少なりとも上げるということもあったかもしれないが、エサ米の場合はそれは全くない。最後の「聖域」である美田が遊休地(耕作放棄地)化するのを見たくないのである。圃場整備された美田には巨額の税金が投入されており、その荒廃はそのまま農政の敗北を象徴することになる。しかし考えてみれば今の日本人は1960年代の人の半分程しか米を食わず、その消費量は毎年10万トンずつ減っていて、尚且つこれから人口は減っていくのだから昔と同じように田を維持していくこと自体が無理なのは誰にもわかる。

 何度も言うように(いや1回だけかな)すでに農地からの戦略的撤退の局面に入っていて、田以外の使い方、例えば都市民に開放するとか、公園にするとか、平地林として林業に使うとか、自然植生を復元するとかいろいろアイディアはあるはずなのだ。田という観念の呪縛からいい加減に自由にならなければならない。(今回は怒れる鈴木サンでした) S
by kurashilabo | 2016-07-23 10:50 | 鈴木ふみきのコラム