2016年 03月 19日
開拓日記 2016年3月19日
その「バブルの頃買ってちょっと損した組」という方は丁度ボクと同年代で話がはずんだ。「この先に中世の城跡があるんだょ、案内するから行かないか」という。城とはいっても中世のものは山城、つまり自然地形を利用した砦だ。このあたりでは中世で最後となる戦いとなった場所だという。開拓地はその昔古戦場だったといは聞いていたが砦の話は初耳なので興味をそそられた。
すぐそこだというけれども山道である。呼吸器系弱者としては一瞬逡巡したがついていくことにした。「腹を切って(手術して)以前のパワーは無いが」と言う割にはスタスタと登っていく。ボクはハァハァと息つぎしながらついていくのがやっと。「大丈夫ですか」などと声を掛けられるしまつ。来たのを半分くらい後悔した頃(時間では15分くらいのもの)やっと到着。 調査が済んでいるのかどうかは知らないが、「空堀(カラボリ)」がはっきり残っていて中世の城塞であることは間違いない。裏にまわれば「馬の背」と言ったか小さな峰の両側を人工的に削り落とし、人一人しか通れなくした峰道が造ってある。周囲には何段かのテラス状の平地が造られている。ここに筑波山の向こう側(表筑波)の小田城を本拠とする兵がたてこもり、柿岡や小幡方面の佐竹の兵を迎え討ったのである。(元亀四年三月、西暦1573年)。標識は無いが「長峯砦」と呼ばれているそうだ。
周りを覆う雑木の間から少しだけ下のムラや田が望める。台地状に突き出した場所なのでその昔は下の方が広く見渡せたのであろう。ちなみに私たちは山は昔も今と同じように木々に覆われていたと考えがちであるがそれはどうも違うらしい。昔の里山は草地や低木林がほとんどで禿山に近かったという。少し長くなるが説明すると、その理由の第一は薪炭である。昔の生活は料理も暖房もすべて薪炭であったからそのために木を日常的に切っていた。(炭は自給よりも売るためのものが多かった)しかも切るのはナタであるから大木は扱いきれない。低木林でないとダメなのだ。どの家でも365日使うので広大な里山を必要とした。第2は田の肥料として大量の若枝が必要だった。春先に若葉のついた小枝を沢山刈り取って田に踏み込んで肥料とした(刈敷)。第3はマグサである。馬や牛のエサだ。馬の役割は今の軽トラックと同じで運搬が仕事。乗馬の習慣は日本には無かったし(江戸時代は武士以外は禁止されていた)農耕馬もいなかったが(馬耕は近代になってからの技術)厩肥を採る目的もあってムラには馬が沢山いた。そのために草地が必要で(マグサ場)山や河川敷などが利用されていた。(1頭あたり約1haの草地が必要)。その他にもカヤ場があるし(屋根をふくためのススキ原)焼き畑も行われていた。このように里山は酷使されていて、低木林や草地になってしまうのである。
何の話だったか・・・そう砦だ。
息がキツかったので見学もそこそこに登りとは別の沢沿いの道(道など無かったが)を下って帰ったのだが、近くには滝もあるのだという。滝とはいっても水量からして馬のションベン程度のものらしいが「赤滝」という名前もついている。いつか見てみることにしよう。実に有意義な一日でした。ハイ。 S
by kurashilabo
| 2016-03-19 14:32
| 鈴木ふみきのコラム