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ふみきコラム 縁側と庭的空間<後>

 今日、犬も猫もペットと呼ばれている、ほとんどの人はそのことに何ら違和感をもたない。しかしペットということばが一般化したのはさして古いことではない。確かではないが記憶では1970年代頃からで、それも当初は「お座敷イヌ」的な過剰なかわいがりを嘲笑するようなニュアンスがあった。むろんそれまでも犬も猫も飼われていたし、かわいがられてはいたが、それでも犬は犬、猫は猫の分際で、「全的に人に属している」訳ではなかった。病気になっても精々暖かく静かな場所に置かれて頭を撫でられるのが関の山で「イヌネコ病院」に連れていくことなどほとんどなかった。そもそも犬も猫も拾うかもらうもので買うものではなかった。去勢も一般的ではなかったし、テキトーに間引かれていたのである。ここでの言葉を使えば犬も猫もまだ「縁側、ないし庭的」エリアの存在者で人間界に属してはいるが他方、犬としての、また猫として自然性と論理を生きていたといえる。(犬は庭に鎖でつながれているという不幸の中にいたがそれには歴史的な理由がある。その問題はここでは省略)

 犬猫の「ペット化」は70年代以後「幾何級数的に」進んで今ではそれが普通のこととなっている。それは社会から「縁側ないし庭的」空間が失われていった歴史と明らかに対応している。彼らが生きてゆくには「ペット」という以外のありようがなくなってしまった。注意しなければいけないのは、そのペット化は飼い主をペット化するということでもあるということだ。人と動物(家畜)の関係は常に双方向的で合わせ鏡のようなものである。犬や猫が「縁側ないし庭的」空間から切り離されて、自然性を失うということはその飼い主を自己完結したプライベートな空間に閉じ込めるということでもある。ペットと飼い主が形成する世界は全くプライベートなもので自然にも他者にも開かれていない。

 「縁側ないし庭的」な場とは、この農場のように「手仕事として」作物を育てたり動物を飼ったり、小屋を建てたり、色々な人がワイワイガヤガヤと出入りしている場所だ。昭和30年代までの農家をモデルにして言えば、文字通り縁側や庭先から始まり、田や畑もそうだし、里山もそうだった。濃淡の差はあれ、そこは「庭的」な場所で、人間の働きかけと管理の意志に貫かれた場所ではあるが、同時に自然(野生)もまた力強く自らを開示していた。人と自然がせめぎあう両義的な場所、風土、そこはまた共同体的な空間で、自分という個でありつつそれがそのまま他者へ社会へ開かれていた。良くも悪しくもプライベートな個、「私」はありえなかった。考えてみればそこでこそ犬は犬であり、子どもは子どもであり、川は川、山は山であり得たのだ。

 昭和30年代以降、「縁側ないし庭的」空間が失われていったのは言うまでもなく市場経済の論理が田舎の草木一本に至るまで貫徹されたからである。「近代化」というのは贈与をベースに織りなされていた人と自然、人と人の関係を交換経済の論理一本で再編成するということであった。私たちはそれこそが「進歩」だと誤解していたと思う。そしてその結果、人々はペット化された個、経済用語でいえば単なる消費者でしかなくなった。そこでは皆、ごく私的な関心を生き、私的な言葉をささやいている。それは自然にも社会にも開かれていかない。「言葉が収縮し、躍動しなくなり」「言葉の芯、怒りの芯」が無くなったとすればそういうことと無関係ではないと思う。私たちは「他者」も「自然」も「社会」もどうでもいい「私」を生きているのである。

 いや、むろんたまごの会も暮らしの実験室も、その「他者」や「自然」「社会」を取り戻そうというもがきではあるのだけど。 S
by kurashilabo | 2016-01-30 15:16 | 鈴木ふみきのコラム