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ふみきコラム 縁側と庭的空間<前>

 新聞のインタビューで作家の辺見庸氏がなかなか刺激的で重いことを言っている(朝日新聞朝刊1月21日)。それは自分もうすうす感じていて、感じてはいるがうまく言えなかったところでもある。

 例えば昨年の国会前のデモについて「…『冗談じゃない、あんなもんかよ』という気がしますね。…なぜ国会前デモのあとに行儀良く道路の掃除なんかできるんでしょうかね。…安倍政権への反発というのはあるでしょう。しかしどこか日本的で、むしろ現状維持を願っているような感じがしますね…」「…『何としても社会そのものを深いところから変革したい』という強いパッションがみえない。『怒りの芯』がない。それは言葉の芯とともにどこかに消失してしまったんでしょう。この傾向は70年代から幾何級数的に進んできたと思います。市場経済の全面的な爛熟というのでしょうか、それとともに言葉が収縮し、躍動しなくなったことと関係あるかもしれません…」

 昨年の安保法制反対の国会前デモ(?)にはボクも3度ほど出かけた。しかし正直言えば何の手ごたえも感じなかったし、それで何かが変わるとも思えなかった。阻止できるともむろん思わなかった。声高に語られる言葉もあれやこれやのパフォーマンスも、聞き慣れ見慣れたものばかりで、新しい何かが生まれつつあるという感触もまた持ちえなかった。では他にどのようなやり方があるのか、どこに新しいものがあるのかと問われれば何も答えられないので黙して歩むしかなかったのだけれども。それにもましていぶかしく思ったのは自分の中に怒りの感情がない、本当は怒っていないということだった。むろん反発はある。これはマズイことになりそうだという。しかしそれは怒りではない。そして周りを見渡せば、これも老若男女、様々なパフォーマンスを見せてはいるがどこか物見遊山的で、怒りがない。デモの交通整理も主催者と警備側が話し合いながらやっている。「フランスではデモはそういうもの」というけれども茨城くんだりからシンドイ身体を引きずって出掛けてこれではなぁ…。
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 いや言いたかったこと、辺見氏の言葉に刺激されたのはそこではない。その後半のところ、「怒りの芯」「言葉の芯」がどうして消失してしまったのか、どうして言葉が収縮し躍動しなくなったのか、70年代から幾何級数的に進んだというそれは市場経済の爛熟とどういう関係があるのかというところである。辺見氏はそこをこの社会が必要とするのは怒る人間とか、変革する人間ではなく「購買者、消費者としての人間」だからだと言っている。それでいいと思うけれども同じことをボクは「縁側ないし庭的」空間が失われたからだと言ってみたいのである。(時間切れで続く) S
by kurashilabo | 2016-01-24 15:03 | 鈴木ふみきのコラム