人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ふみきコラム ~昭和30年代の暮らし

 昭和30年代の暮らしと今の暮らしの違いは何だろう。「昭和30年代はいい時代だった」といかにもトシヨリっぽく言う時、その何がよかったのだろう?あの貧乏な時代の。くだくだ考えて「縁側、あるいは庭的」という言葉にたどり着いた。むろん象徴的な意味でだが。

 手っ取り早く言えば「縁側あるいは庭的」とはこの農場のような空間のことである。畑には多種多様な作物が育てられている。ニワトリや豚が昭和30年代的に飼われている。これらは出荷用ではあるが、かと言って商品経済一辺倒の近代農業のように「モノ」として扱われている訳ではない。山羊が飼われ馬もいる。犬や猫がうろついている。夜ともなればまわりの林やヤマからタヌキやアライグマやら野良猫が侵入し、残飯やニワトリを狙っている。そこは人が終始手入れをし、作物を育てたり動物を飼ったりしているという意味では人間に属した空間だ。しかし同時に野生、あるいは自然も力強く息づいている。外に開かれている内側、そういう場所だ。
これを行為としてみれば、「家畜化」ということになるだろう。ニワトリは東南アジアに棲息する赤色野鶏を長い年月をかけて家畜化したものだ。今は文字通りニワトリとして人間界の住人になっている。しかし人が「飼う」という行為を止めれば野鶏としての本質を現し自然に帰っていくだろう。彼らは人間界の住人でありかつ自然界の住人でもあるという両義性を生きていて、そのことによって人と自然を媒介している。豚であれ犬であれ猫であれ、かつまた稲であれ大根であれ皆同じである。

 農地もまた同じだ。農地というのは自然実体としてそこにもともとある訳ではない。原野を切り拓き、人が年月かけて飼い慣らしてきた地面、それが農地だ。そして人が「管理する、手入れする」という行為を止めればその本質を現しまた自然に帰っていく。人間界に属した土地であり、かつまた自然の地面であるという両義性において人と自然を媒介している。家畜化された地面なのである。

 同じことを田園回帰派的に言えば、「自給」ということになるのではないかと思う。田舎暮らしする人は何でも自給しようとする。これはむろん「お金がないから」ではない(自給するとよりお金がかかることもしばしば)。実は自給こそ田舎暮らしで目指されていることなのだ。田舎暮らし系の本を開けば一目瞭然、そこには自給の楽しさしか書いていない。食べ物はもちろん畑、衣服、住居、エネルギーなんでも自給だ。

 で、自給とは何かといえば、自分のために作るということであるから、その行為自体に没頭できる。そこには飼う、育てる、耕す、作るという行為が最もピュアな形である。それは交換経済から最も遠いところ、「ひたすらの贈与」によって対象をわがものとしようとすることなのである。そのようにしてわがものとされた、すなわち家畜化された動物や植物、地面や小屋だけが人と自然の回路を開くことができる。こうして自分の周りに「縁側、あるいは庭的」空間が出現する。これが自給ということであり、田園回帰派の夢だ。(彼らが総じて貧困なのも当然かもしれない。目指しているのが非交換経済の世界なのだから)

 このようにみてくれば有機農業というものもまた違った見方ができるだろう。一般に有機農業は農薬や化学肥料を使わない等という指標で語られている。しかしより本質的に言えば近代農業が交換経済一辺倒になることで失ってしまった「飼う」「育てる」「耕す」という行為のもつ贈与性を回復しようという実践だ。そして再び人と自然の親和的な関係を取り戻す。それが有機農業だ。だからたとえ無農薬無化学肥料でも大面積の単一作物を機械と人を使って栽培し市場出荷しているならそれは有機農業とはいえない。有機農業は自給性が高く大規模にはなり得ない。また、このような見方からすれば自然農法と有機農業の違いなどさして問題にならないだろう。

 昭和30年代までは人の生活が「縁側、あるいは庭的」な空間で営まれ、「家畜化」された動物や植物、小屋(プリミティブな住居)、地面であふれ、田舎に住む多くの人はその中から暮らしに必要なものを取り出して暮らしの基本を作っていた。「縁側、あるいは庭的」エリアを介して人と自然が親和的に暮らしていた。それは経済と技術の発展段階のしからしむるものではあったが、確かに「暮らしの原型」といえるものがそこにあったと思うのである。 S
by kurashilabo | 2015-12-12 18:20 | 鈴木ふみきのコラム