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ふみきコラム ~創造的没落という戦略?

 島田雅彦の「創造的没落」という魅力的な言葉につられて話を継げば、地方こそが「創造的没落の物語」を紡ぎ、その方向で戦略を練るべきではなかろうか。地方消滅などと脅されて「人口を維持し活力ある地方の総合ビジョン」などに振り回されることなく。戦後の、いや明治以来の「世界の一等国」であろうとする成長物語りにつき合うのはもうやめにして。地方はもう十分すぎるほど貢献したし、あとは悠々自適の老後を生きていけばいい。身をすり減らし「世界の一等国」であり続けるべく24時間闘う人々は尚必要だろう。しかしそれはそういう立場にいる人たちに任せておけばいい。彼らも必ず「創造的没落」を必要とする時がくる。

 没落としてボクがイメージするのは昭和30年代の暮らし方である。昭和30年代はいい時代だった。ボクはその郷愁に生きてきたといってもいいくらいだ。むろんこれは客観的な評価ではない。自分史でいれば8歳から18歳くらいであるから子供時代は誰にもよく見えるものではあるだろう。だがそれを差し引いたとしても。
まだみんな貧乏ではあったが、食い物にはもう困っていなかった。主食は麦飯で質素ではあったけれど。近代畜産成立以前で肉や卵は少なくタンパク質は魚がメインだった。エネルギーは石油やガスも普及し出してはいたが、薪炭もまだまだ現役で台所にはカマドと七輪、消壺などが並んでいた。風呂も薪だった。輸送手段はむろんトラックや鉄道はあったが日常的には自転車、リヤカー、馬などが活躍していた。農業もまだ近代化農業以前で、馬が活躍し春の田はレンゲ畑になり、畑の隅には肥溜めがありお百姓はそれを汲みだして天秤棒でかついでキャベツなどにまいていたのだった。高速道路もましてやコールドチェーンなどはなかったから米、麦、大豆などメインのものを除けば野菜類は否応もなく地産地消であった。それでも農家は田畑合わせて1町歩ほどに精を出せば大変ではあったけれど農業で食えていた時代である。そういう中で地域の子どもたちは子ども集団で山や川を遊び場としていた。川には魚があふれていたし、里山にもまた日常的に大人が入っていたから遊び場には最適だった。テレビはまだ出たばかりだったし、ゲームもなかったから遊びといえば外遊びだったのである。

 ボクが没落していきたいのはこのような「昭和30年代の暮らし」である。「なつかしい未来」。経済高度成長以前、近代化農業以前、内山節歴史観でいえば「1965年の革命」以前。繰り返し思いがそこに立ち返ってしまうのは、おそらくそれが単なる過ぎ去った過去ではなく、今にない価値がそこにあったからではないか?それを生き方の指針、あるいは方法論として取り出したい。それを体で知っている最後の世代の役目としても。
さて、そいいう眼でみれば地方はお宝がいっぱいだ。素材はいくらでもある。ボクが自治体の長ならば例えば「昭和30年代村」というものをテーマパークとして作るだろう。エネルギーも電気も昭和30年代レベルに設定し、できるだけ多くの村民がその中で実際の昭和30年代の暮らしをするのである。アーミッシュのようにして。山も川も田や畑も当時のような利用をし、水車も復活し、魚の豊かな川も取り戻す。経済もできるだけその中でまわしていく。はじめは少ないかもしれないが、地付層だけでなく新住民にも開放すれば参入する人は多いはずだ。見学に来る人もあとをたたないだろう。そして次第にテーマパークの内と外の境が消えて地域全体が昭和30年代の経済と暮らしに引き込まれていく。それがボクのイメージする「明るく楽しい没落」だ。そして気がつけば消滅どころか人口は増え、この「正しい没落の仕方」は日本の希望にさえなっているだろう?。

 このような没落であれば、創造的没落を追及する田園回帰派もおおいに協力できるだろう。だがおそらく残念なことに地方はまだそこまで没落を受け止めきれない。今のままでも十分に暮らしていけるから。まだまだ「成長と発展」というイデオロギーの中にいるから。だから田園回帰派は先んじて没落していくしかないのである。 S
by kurashilabo | 2015-11-28 12:16 | 鈴木ふみきのコラム