2015年 10月 30日
ふみきコラム ~鎮魂の儀式
畜産というのは人間が勝手につけた理屈をはがしてそのまま見ればひどく残虐な行為であるからそれを続けていると気持ちがすさんでくる。負債感が蓄積してオリ(澱)のように心の底にたまっていく。それは精神衛生上よろしくない。そして「いい畜産」を考えてより動物たちの心身に寄り添えばそれだけこの負債感は大きくなるというやっかいなものなのだ。鎮魂際はそれを帳消しにするための儀式でありマツリである。「殺してごめんね。おいしくいただきました。ありがとう」ということだ。
が、モデルが無い。(あるかもしれないが知らない)。そもそも魂とか鎮魂とか言うには、あの世とか神サマがいなければならない訳だけれど「そんなものは存在しない」というのは我々が受けてきた教育であり、日常生活もその前提のうえに出来上がっている。突然、魂とかあの世とか神々を持ち出してきても実感を伴うものではないし、どのようにそれを表現したらいいのかも皆目わからない。戦後精神を生きてきた人間には答えが出せない。
・・・焦る。やさと農場の「秘儀」鎮魂祭はあさってだ。何でもいいから式次第をひねり出さなければならない。で、思いつくままデッサンしてみる。
●火をたく。 これは毎回(といっても2度しかやっていないが)やっている通り。
火の神はアイヌの伝承ではこの世とあの世をつなげるメッセンジャーである。
●呪文を唱える。 儀式はことばのない世界との交流であるからことばは使用しない。呪文は音であり、人と自然をつなぐものだ。とりあえず「ノーマク サマンダーバザラダン センダマカロシャヤ ソワタヤウン タラタ カン マン」を繰り返すとしよう。これは不動明王の呪真言でポピュラーなものだ。意味はどうでもよい。呪真言だから。
●「鉦」をたたく。 むろん本物の鉦はないから澄んだ金属音がでればよい。「場」を作る。
●五体投地をする。 大地にひれ伏すという最もプリミティブな祈り。
チベットのカイラス山のまわりを五体投地しながら巡るチベット仏教徒やボン教の信者の映像を見たことのある人もいるだろう。そのまねっこ。ちなみに古い時代には日本にもあったし、今でも成田山新勝寺では(堂の中でその場を動くことなく)「行」としてやっているはず。
●動物模写。 動物になりきるパフォーマンスで動物の世界を想像する。メンバーそれぞれ豚やニワトリや犬、猫、山羊、ヘビ、クモなどになって大地を這う。人間としての恥じらいは捨てる。
●豚の頭骨、豚足、ニワトリの頭、卵、米、野菜等を火に投げてあの世に送る。
ウーン。何か足りないような気もするが、ま、いいか。「踊り」が欲しいがイメージが湧かない。歴史教科書にもよく取り上げられている「一遍上人絵伝」の踊り念仏をやってみたいが、絵はあってもどんな振りと音なのか映像がないからなぁ。太鼓と踊りだ。
ちなみに野菜や米も鎮魂というのはいかなることか。野菜や米には魂は無さそうだけど(生きとしいけるものすべてに仏性があるとする考え方は日本仏教の伝統ではあるが)これは大地の恵みに感謝するということで一緒に。
サテ、どんな儀式になることやら、ちなみに体験、見聞したことはむやみに口外しないように。世間一般で通用する話ではありませんので。どんなカルトかと疑われそうだし。 S
by kurashilabo
| 2015-10-30 16:11
| 鈴木ふみきのコラム