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ふみきコラム ~耕作放棄地という空き地

 耕作放棄地は一般にネガティブに語られることが多い。本来あってはならないこと、なんとかしなければならない問題として。しかしそこには耕作、あるいは農耕を無意識に善と考える農本イデオロギーのようなものが潜んでいる気もする。普通に考えれば必要なければ作らないのは当然だし、自然に還すのも悪いことではない。もともと過剰に耕作していたのである。
 
 また耕作しなくなって誰が困っているかと考えてみると、実は誰も困ってはいない。米も野菜も十分に足りているし(大量の食料輸入という現実はみておかなければならないが、その最大のものは家畜飼料で、輸入が止まれば現在の畜産は成り立たなくなる。)農家経営が困る訳でもない。(農家としてカウントされている人たちの8割以上はすでに実質的には農業から離れていて、その主たる経済は農外収入になっている。勤めているとか年金とか)むしろ中途半端に作ればそのために農業機械を揃えなければならないし、諸設備や資材を考えれば収入は相殺されて苦労だけが残ることになる。

 かように耕作放棄地とは社会にとっても農家(?)にとっても必要が無くなった土地のことなのである。日本が工業的に成功し、豊かになり、都市化した結果必要がなくなり棄てられることになった土地。ここ40年来急速に拡大し、これからも増えていくはずの無用の地。空き地。そこをどうするか、どう再利用するかは国土利用上の基本問題になっているはずなのだが行政も誰もそこには触れない。見てみないふりをしている。

 話がそれるが、昨今、田舎では雨後の竹の子のたとえそのままに至る所にソーラーが出現している。(私事になるが先日山梨の自宅に帰ったら隣接する一反歩の農地がソーラーになっていてびっくり。あまり愉快なことではないが阻止する法的手立てが無い。)このソーラーはすべて荒廃した里山か耕作放棄地に作られていて、そういう意味では棄てられた土地の再利用という面がある。固定価格買取制度のおかげで無用で「お荷物」であった土地が何年か後には確実にお金を産むのであるから農家がなびくのも無理はない。

 サテ、この「空き地問題」を誰もが見て見ないふりをしているのはそこに農地法と所有権の問題がからんでいるからだ。ウカツなことは言えないのである。農地法は戦後の農地改革を受けて1952年に施行された大変強い法律で、農地の農外利用や非農家が農地を取得することを原則として禁じている。(現在では規制緩和の圧力も強くなっている。「農家」自身も「じゃまもの」に思っている。売りたくても売れないから。また農業振興区域外ではもともと規制はゆるい)どんなに荒れていても行政上農地は農地であり続け、農地法の規制を受けるのでそれをクリアしないことにはどんなアイディアも実現できない。

 所有権の問題はもっと難しい。現在農地はすべて私的所有されていて、それを誰もが当然のこととして疑問に思わない。農家も「土地資産」と考えて恥じるところがない。しかし農地は自動車や住宅やお金のようにその人に全的に属するものとは本質的に違う。「私有物」である以前に、この列島に住む人々がそこに食い物を依存しなければならない地面としてその昔から「公共財」としての性格をもっている。それゆえ原理的に言えばそこを農地として利用する限り、その人に優先的にな使用権が発するのは当然だが、農地として使わなくなれば本来、公共の地面としてより高次の「公」に戻されるべきものだ。そのような意味で農地にあるのは所有権ではなく耕作権だと思う。歴史的に言っても農地が私的所有されるようになったのはさして古いことではない。もともとイエとかムラという共同体所有であり、同時により高次の「公」(藩とか天皇とか)のものでもあった。そこに私的所有の考えが導入されたのは明治の地租改正(地券の発行)からで、現在のように私的財産だから「煮て食おうが焼いて食おうと俺様の勝手」的になったのは戦後も戦後、ムラ共同体の解体以後のことではなかろうか。

 ややこしい話になって恐縮だが農地に関してはあまりの非常識が常識になっている。農地が本質的にもつ公共性と、制度としての私的所有の矛盾、そこをどうにかしない限り「空き地問題」の見通しは暗い。夢想ではあるが、もしその「空き地」が国民的な「入会地」のようなものとして公共的に管理され、希望に応じて使うことができるようになれば、われこそはと多くの人がそこに参入してくるのではあるまいか。 S
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by kurashilabo | 2015-10-09 16:06 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)