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ふみきコラム ~われらの開拓地の40年前

 八郷の森林組合に勤めているSさんが、ボクたちが「開拓地」と呼んでいる谷津田の航空写真があることを教えてくれた。(Sさんは暮らしの実験室の運営委員でもあります)森林組合は仕事上、森林の状態を把握するのに使っているのであろう。別紙の写真右は1974年~78年頃のものである。左は2007年のものだ。その他にも1980年頃のもの1990年頃の写真もある。それらを年代順に見比べていると実に興味深く、いろいろなことが分かった。
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 まず、もともとこの地がどのように使われていたのか、はじめてクリアにわかった。最初に足を踏み入れたときは葦やイバラ、緑の壁の如く立ちはだかるシノ竹ばかりでどこに道があり、どこに水路があり沢があるのか、それさえつかめなかった。今年一年で「開拓団」と農場スタッフが協力して用水路を復元し、計3反くらいの田を復元し、おおよそのところはつかめたが、それでも全体像は「まあだいたいこんなところだろう」くらいにしかわからなかった。写真を長々と見つめていて、霧が晴れていくように原状がわかった。 

 この谷津田は写真でみる通り、能登半島に似た形の谷で、左右は比高30メートルくらいの山(斜面)である。右側(西側)は日当たりがいいのでいろいろ利用されてきたが左側(東側)は杉やヒノキの人工林にところどころカシやモミが混じった森になっていて、これがために朝方は陽がさえぎられる。2007年の写真でみるようにやや下方でくびれた谷の入り口より奥は現在ほとんど耕作されておらず葛や葦やシノの原野となっている。今はこの写真から8年が経過していてさらに荒廃が進んでいる(2007年の写真では水路がまだ見えるが今年に入ったときは全く消えていた)。

 40年前の写真をみてわかるとおり、この谷はもともと平均2-3畝の田が千枚田の如く続くという景観で、なかなか見事なものである。1970年代の時点ですでに上方半分は耕作放棄されている。実は上の方は左側の山を越えた部落の人の耕作地で、不便であるし、奥でもあるので1970年の減反政策と同時に耕作を止めたのであろう(しかしこの時点では田の境はわかる)、日当たりのいい谷の右側斜面もみかん園、その他で利用されていることがみてとれる。放棄された後の斜面は一部にあった竹林(孟宗竹、真竹)がどんどん勢力を増し、いい所を覆い尽くしている。それがために夕方の日差しがさえぎられ日が暮れるのが早い。

 もともと人と馬しか頭になかった時代の耕作地なので道は狭く、それも崩落やヤブ等で通ることができない。面積的には3ha位ありそうなのだが現在のところこの谷の中に車を入れることはできない。車どころか歩み入るにも少し勇気がいる。今の時代、車も機械も入らないような所を使おうという人はいない。余程のモノ好きを除いて。それで人界から切り捨てられ、シシガミ様の土地となっていたのである。

 このような土地をほとんど人力だけで耕作し続けてきたという事実にまず圧倒される。それは並大抵のことではできない。土地への執着と百姓としてのプライド、地域の共同体メンバーとしての“しばり”と競争意識、ぼくなりの言い方をすれば百姓スピリットなしにはできない。少しでも効率や生産性などという価値に染まったらもう自分を維持できなくなる。そのような百姓スピリットを身に着けていたのはムラの近代化、農業基本法成立(‘61)以前のムラで自己形成した人に限られる。年齢でいえば現在80才~90才くらいの人まで。40年前、この八郷農場の初期に御三家と呼ばれた契約農家、高橋義一氏、桜井氏、宮川氏などの世代と言ってもよい。彼らの世代が現場からリタイアし、人の世から消え去ると一緒にこのような耕地もまた歴史からフェードアウトしていったのである。社会が変わり、人が変わった以上その景観はもう戻ることはない。

 開拓だ、開拓だとはしゃいでボクたちはそこに足を踏み入れている訳だが、一体全体何をしようとしているのであろうか。元の景観を復元したいのであろうか。それもなくはない。このような棚田景観はもはや文化遺産になりつつあり、それを復元維持することにも何ほどかの意義はあるだろう。(しかし現実的には労力がかかりすぎてかってのようにそこを耕作し続けることはできない。)しかし本当のところはそうではなく、もっと単純に(その地の歴史過程とは無関係に)そこはアドベンチャーワールドなのである。人と農と自然の最適解を夢想するボクたちにとって。あらゆる素材がそろっている自由の大地。フロンティア。 S
by kurashilabo | 2015-09-26 15:56 | 鈴木ふみきのコラム