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一年間の研修を終えて(羽塚冬馬)

昨年の研修生の冬馬君から1年間の研修のレポートが届きました。

しっかり考えられていて興味深い内容なので、冬馬君を知っている人も知らない人もぜひお読みください。

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2014年度研修生 羽塚冬馬

 僕が大学を卒業してすぐ、2014年4月から翌年の3月まで、このやさと農場で研修生として一年間過ごしてきました。多くのことを感じ、自分の中でも大きな変化のあった一年でした。それが終わった今、ここでの生活で感じたことを言葉にまとめたいという思いがありました。この文章は、僕の研修生活の感想文です。この研修は、僕のこれからの生き方を決めようという思いを込めた一年間でした。その一年を振り返るということは、ところどころに僕自身の持つ「生きること」そのものへの価値観が垣間見えることかと思います。それはもしかしたら、これを読んでくださる方々の生き方を否定するように映るかもしれませんが、それは僕の拙い文章力によって生じてしまった副産物です。主たる目的は、この研修期間を経た僕自身のあり方を書き記すこと、それを念頭に置いてお読みいただければ幸いです。
 またこの文章を書くことにはもうひとつの動機があります。それは、この研修期間の経験を形として残すことで、いつもとは異なる視点での農場の発信として、外部の方々に少しでもこの農場のことを知ってもらえれば、そしてほんのわずかでも農場のこれからにつながれば、そんな思いが込められています。それは、この場所で様々な経験をさせてもらった僕の、微力ながら精いっぱいの恩返しです。


◯お肉を食べることについて
 僕がこの農場に来た理由、それはハッキリと一つには絞れませんが、一番はお肉を食べることへの葛藤でした。大学生活の後半、ふとしたことから、それまで口にしていたお肉の背景、つまりは生産の現場が気になり始めました。なぜならそれらは、ぼくの目には悲惨な光景として映るであろうことが、容易に想像がついたためです。そこから食肉工場の現場を調べたり、映画を見たり、周囲に多くの迷惑をかけながらベジタリアンとしてすこしだけ生活してみたりしましたが、結局行き着いたのは、動物を育て、殺し、食べるという一連の流れを自分の身で受け止めてみたいという思いでした。しかし生死の関わる現場に、素人が立ち入れる機会はなかなか見つかりませんでした。そんななかで鶏の屠殺体験をさせてくれるというこの農場の存在を知ったときに、強く惹かれたのは当然のことでした。
 このテーマを抱え一年間を過ごし、あらゆることを体感しました。首を切られた鶏の最後のもがき、屠場のベルトコンベアで流れてくる豚の鳴き声。その一方で、人を見つけると駆け寄ってくるまんまるひよこと、母豚のお乳をたどたどしくさぐる子豚。ここでの日々は、あらゆるものが生まれ、死ぬということを身近なものにしました。そんな体験と、この生活で触れた思慮深い方たちの言葉、その二つをもって現段階で自分の中に落とし込まれていること。それは自分の都合で他の命を奪うこと、それはいくら感謝してもなんの許しも得られない、グレーで違和感の残ることなのだという実感でした。
 そこに至っていながらぼくはお肉を食べることをやめるという道を選びませんでした。それは、ここにきて料理をするようになり、動物性の食材の持つ、何にも代えがたい大きな存在感を知ったからでした。単純な話ですが、お肉が出ると、食卓は笑顔になりました。そんな理由はとてもひとりよがりで、いわゆる“人間のエゴ”に過ぎないという批判は、まさにそのとおりだと思います。このような”エゴ”を廃した人(つまり肉食をやめた人)の意志の強さは心から尊敬するし、良心を持って生まれた生き物としては、その選択はより精神性の高い決断であるかもしれません。しかしここでの生活は、自分自身が大きな生死の循環の中で生きる一頭の動物にすぎないということを深く感じさせました。豚の屠場に行き、目が眩むような大量の死を目の当たりにした後、一時的に食欲はなくなりましたが、そのあとに食べた豚のお肉が、これまで口にしたものの中で一番味わい深かったことは、とても印象深い出来事でした。今の自分は、その命の痛々しいつながり中で生を全うすることを選んだといえます。
 今後のぼくの態度についてですが、これらの体験とは丁寧に向き合える生活は送っていきたいと思っています。この農場の外で、自分の意志で持ってお肉を日常的に口にするようであれば、この農場のお肉を購入したいと考えています。ここのお肉は、工場の製品ではなく、生き物として生を全うするギリギリまでその命を尊重されたものだと知りました。それでもお肉からにじみ出る悲しみは決してゼロではありませんが、僕にとっては市販の物とは大きな差がありました。まだまだ考えるべきことは尽きませんが、生きていく上で悲しみのある選択を取っているならば、そこに自覚は持ち続けたいというのが、現時点での僕のささやかな意志です。ただこの態度は僕個人のもので、僕と食を共にする人に強要する気は全くありません。他人との関わりを考えたとき、全員が美味しくありがたく食べられることは、僕にとっては食にこだわりを持つこと以上に大切であるためです。

◯暮らすということについて
 もうひとつ大きなテーマだったこと。それは自身の暮らしの再考です。生きていく際に必要とされること、食を始めとして、衣類や、移動手段や、その他あらゆる日用品。それらを、日々お金を払って手に入れることは、自分が想像しきれないほど広い範囲での経済活動を経て、様々な形できっと多くの人や物を不本意に傷つけているのだろうという感覚が生まれ始めました(それは裏打ちのある事実としてではなく、僕個人の感覚的なものです)。そのような感覚を持ち始めてから、僕の生活は可能な範囲で徐々に変化していきました。だんだんと地産地消的な食事を好むようになり、服へのこだわりが薄れていき、移動には燃料を必要としない徒歩や自転車を使う頻度が増えていきました。
 農場生活は完全な自給自足とは言えませんが、大きな流れに全てを委ねるのではなく、自分たちの手で小さな暮らしを作っていることは確かです。そしてこの一年間で、人がそのような生き方をしていくというのはどのようなことか、それを実際に体感させてもらいました。畑で野菜を収穫し、生き物に手を加えお肉にする、そして自分自身で調理するという基本的なところから、土を採取して器を焼く、原毛から糸を紡いで編み物をする、竹でかごを作る、薪を割り、それで暖を取る等々。どれも体験程度のことしかできていませんが、身の回りのものを自身の手で作る営みがどのようなものかを知る入り口にはなりました。そしてそれらは、思い描いていたよりもずっと泥くさくて地道なものでした。
 そうやって自分が憧れていた「自給的な暮らし」の全体像が、ぼんやりとした想像の生活から、地に足ついた実感へと移り変わっていき、そして当時は過剰だったとも言える、今の暮らしへの神経質で批判的な眼差しは落ち着いていきました。暮らし方の検討がついて、あとは今後の生活の中でどれほど実践していけるか、そんなことを静かに考える段階に入ったといえます。

◯これからについて
 そして僕のこれからについて。先述したのは、自分自身の衣食住、つまりは生命活動を維持していくことに関わるテーマでした。それに加えて、僕がこの世での生を全うしていく中で、この社会にどのような形で還元していけるかというのは、常に頭の片隅にあったことでした。そのことに関して、大学時代からぼくが強い魅力を感じていたのが、子どもの存在、そして人間の心の存在でした。公園で子どもを見る親のあたたかな目、心の葛藤超えて一歩踏みだそうとする人間の気力、このふたつは僕が人間の生の輝きを強く感じたテーマでもありました。そしてそれらが実際に起きる現場で、みずみずしい感性を持ち続けること、それが僕の生を輝かせることにつながるのではないだろうか、ということは、この農場に来る以前から持っていた考えです。
 僕がこの農場で生活をする中で、これらのテーマに関わる要素、つまり農場のような場における教育の可能性、そして人間の心に与える影響を探していました。結論から言えば、それは大いにあると思いました。それを一番体感したのは、共同生活が持つ、人との関わり方についての学びの機会です。同じメンバーがほぼ毎日一つ屋根の下で暮らし、人によっては日中さえ同じ作業をこなすこともある農場での生活。そういった、特定の人たちと膨大な時間を寝食共にする生活は、各人がそれぞれ持つ、自分自身や他人とのあるべき関係のあり方を作る際の課題を浮き上がらせるように思われました。プライベートな場においてはごく一般的なことかもしれませんが、それが全くの他人であった方たちとの間で起きる共同生活の場は、僕にとって初めての経験でしたが、非常に多くの学びがありました。
 そのような思いを持った僕のこれからは、小さい範囲での自給的な暮らしと、その上で子どもを含めた共同生活との両立を目指しています。今後はこのような考えに共鳴する場所であり施設を回り、実際に現場の空気を肌で感じてみようと思っています。


 以上が僕の研修生としてのまとめです。当然なことですが、人によって農場での生活は大きく違って感じられるものだと思います。僕にとってあの場所には、人が他の生命や自然を慈しんで生きていく上で大切なものが確かに存在しているように思われてなりません。そしてそれは、今の時代を生きる上で実にあっさりと見過ごされてしまうものだと、確かな根拠はないですがそう感じています。興味のある方はぜひ一度、画面越しではなく、直接足を運んで、空気を吸って、音と匂いを感じ取ってみてください。そして、難しいことは承知ですが、日帰りや一泊二日でワンダーランドとして農場を楽しむのではなく、できればぜひ三泊以上滞在して、人が生きていく場所としての農場を知ってもらえれば、僕が見たあの場所の魅力はより伝わるだろうと思います。言葉にして抜け落ちていることはたくさんありますが、どうか皆さまに伝わりますように。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

2015年4月10日
by kurashilabo | 2015-05-27 10:45 | 週報からの抜粋