2015年 01月 24日
ふみきコラム 40周年特別コラム⑭
初期たまごの会の記録映画と言われている『不安な質問』(松川八州雄監督)に農場の居間(3間4軒)でメンバー全員が合唱するシーンがある。明峯哲夫さんがピアノを弾き、惇子さんが“ささら”を鳴らし、魚住さんがギターをもち、鈴木光男さんがエアーで「♪あしたからはあなたなしで生きていくのね♪…」とうなるあのシーンである。ボクは農場の初期メンバーではないが、撮影の終わり頃には農場にいて、このシーンにも隅の方で同席していた。たまごの会のイロハもよくわからない頃だったがこの撮影のあと、女性スタッフの1人が「ヤラセよねぇ」と吐き捨てるようにクサしたのをよく覚えている。確かにあの時以外、皆で歌を歌う光景など見たことなかったし、あとから知ったことだがすでにこの頃には農場内人間関係は最悪だったから。だからヤラセといえばヤラセで、松川氏の映画にこのようなシーンが必要だったので、それを承知で皆が演技したのである。ならばウソかといえばウソでもないところが難しいところで、農場建設はあのような心身の共振と高揚がなければ不可能であったはずなのだ。ウソといえばウソ、ホントといえばホントのような『不安な質問』で松川氏は何を“記録”しようとしたのであろうか。るる述べてきたこの小論にひきつけて言えばそれはやはり生き物と共同体ということになるのではないかと思う。ポスト1965という時代の中で“裸の個”として生きざるを得ない本質的孤独を抱えた都市民が農や生き物、共同体という生き方に触れた時の驚きと喜び、そのようなものではないか。そしてそれが一場の夢として消えていく予感の中で『不安な質問』としたのであろうか。
さて、たまごの会が農場建設に着手したのは1974年であるが、もしその10年前であれば「農の課題」など存在せず、都市民による農場建設もありえなかったはずだ。それはポスト1965年という時代にしてはじめて現実的たりえたのである。たまごの会がことばとして掲げたのは「食の安全性」「本物の食べ物」ということであり、言ってみればそれだけだったがそこに生き物や自然とのコミュニケーションの願望、共同体という生き方への欲求があったことは疑いえない。「農場建設」はその最も直接的でわかり易い形だった。たまごの会に関わった人たちが「農場」という単語を発する時、そこにある特有の感情、メタメッセージはそのようなものである。たまごの会はそのレベルでポスト1965年という時代の深いニーズに触れていたのであり、それこそがおもしろさの根源であり、共感を呼んだ理由であるだろう。たまごの会がもしその方向で素直に自己展開を遂げていれば“田舎でもあり都市でもあるような新しいコミュニティ”“人と自然の王国”の試みとしておもしろいものになったかもしれない。しかし残念なことにたまごの会はその可能性を十分開花させる前に勢いを失ってしまった。その理由はいろいろあるにせよ、70年代80年代はまだ冷戦構造の時代だったし、自らを語りうるだけのことばも無かった。早すぎたのである。
ここまでムラ共同体とたまごの会を並べて考えてきたが、本来比較できるようなものではないことは承知している。ムラ共同体は日本社会のベースにあった実体であり、歴史の自然過程として生まれ、また変容し解体していったのであってそこに個人の意志とか運動とかは関係がない。他方たまごの会は70年代の市民運動一つ、それもごく小規模なグループであったにすぎない。ことばの正確な使い方はわからないが、そのような意味ではたまごの会は共同体というよりコミューンと言った方が正しいのかもしれない。コミューンは一般に人々が意志して立ち上げるものだから。しかしたまごの会をムラ共同体という日本史の経験に照らしてみるとたまごの会とは何であったのか、何たろうとしていたのかがクリアに見えてくるから不思議である。むろんたまごの会はムラのことなど意識したことは全くなかった。それが似てくるとあらば、生き物や自然とともにあろうとする暮らしはおのずと似たような形になってしまうのか、それとも無意識に身体に記憶されたムラ共同体を呼び起こしていたのか、いずれにせよおもしろいことではある。 S
by kurashilabo
| 2015-01-24 09:54
| 鈴木ふみきのコラム