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ふみきコラム 40周年特別コラム⑫

 第4に集団としての意思決定の方法が似ていた。たまごの会は地区世話人が十数軒、多いところで50軒程度の会員を束ね、そのような地区が20弱前後連合したものである。各地区世話人に農場スタッフが加わる形で世話人会を構成し、この世話人会が会として唯一の意志決定の場であり、かつ執行機関であった。たまごの会には規約もなく、代表も置かず会員総会のようなものもなく、世話人会での申し合わせがすべてであった。世話人もいわゆる地区代表ではなく、地区を立ち上げ会員を束ねるいわば“領主”であり、地区の人々の意向を常に勘案してはいるけれども最終決定は世話人個人の意志と責任で為された(実際には地区により事情は様々)。このようであったからたまごの会はいわゆる民主的な「組織」ではなく意を決した個人の連合、グループというべきものである。初期たまごの会の行動力や勢い、面白さはこの「個人」を原理とする世話人会という運営方法を抜きには語れない。

 世話人会による運営にはいくつか特筆すべきことがあった。まず多数決という方法はとりえなかった。一般に多数決は少数の意見を排除し多数に従わせるための強制力であって、多数の人々を数として動かしていく組織の論理であり「政治」である。しかしたまごの会はそもそも組織ではなく個人の連合であり運動体であったから、その内のたとえ1人でさえ排除する正当性を他の誰ももちえなかった。またたまごの会では「何が正しいかではなく何をやりたいかを語れ」としばしば言われた。これもまた「正しさ」は必ず「正しくないもの」を作り出し排除する強制力として機能するからである。運動は「~すべき」という正しさの観念(イデオロギー)ではなく、それぞれ固有の「何をやりたいか」「何がおもしろいか」という全身体的欲求に駆動されなければならない。ここにはそういう洞察があるだろう。

 しかしこのような前提で運営するにはメンバーそれぞれに“与党的態度”が求められることになる。組織にはしばしば“野党反対派”が生まれる。相手を批判することに自らの存在理由を見出す一群の人々である。しかし野党あるいは反対派というのはそこに権力構造があり、多数決や「正しさ」で「政治」が動いていく時、ある場面で一定の有効性をもつだけであり、その前提のないところにかようなスタイルが持ち込まれると運営は成り立たなくなる。反対を言いつのる人が1人でもいれば、排除の論理(多数決)をもたない以上、運営はデッドロックに乗り上げてしまうのである。同じことだが実行意志を伴った「何をやりたいか」をもたない人々が集まってもこの運営は成り立たなくなる。どこかの事務局から「方針」なるものが提起されて、その是非を議論していればいい訳ではないから。

 このようにみてくると世話人会方式というのは多数決民主主義的な組織運営の批判として構想されていることがわかる。実際、この点に関しては初期たまごの会は相当に意識的であったと思う。そしてそこには「正しさ」の観念や「組織」がもらした数えきれない悲惨の記憶が反映していることもまた容易に推察がつくだろう。

 しかしこのようなスタイルで運営するのは実に根気のいることであった。全員の納得というのはテーマが重大であればそれだけ困難であり、同じテーマで繰り返し会議をもたなければならかった。(全員賛成とまではいかなくとも積極的に反対の人はいないというところまでもっていくことでさえ)またこのスタイルは運動を立ち上げる時には有効に機能するが、それだけでは運動体を長期的に維持していくことはできない。組織運営という普通のやり方も必要になってくる。実際のところ、世話人会方式が有効に機能したのは初期だけではなかろうか。

 さてこのような意志決定のスタイルは近代的な組織の「会議」というよりむしろかってのムラの「寄合い」に近いのではなかろうか。寄合いはお互いに顔見知った共同体の運営の方法で、そこには「多数決」も「正しさ」もなく、“やる必要のあることのすり合わせ”があるだけである。もっと積極的な言い方をすれば一揆を組む時のやり方でもあるだろう。一揆は意を決した「個人」の横並びの連合であり、正しさではなく実現目標の共有と行動の調整があるだけだった。一揆は組織がやるものではないし、組織にはできないのである。共同体の意志決定というのは結局のところこのような形に落ち着くのであろうか。面白いところである。 S


by kurashilabo | 2015-01-10 09:33 | 鈴木ふみきのコラム