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ふみきコラム 40周年特別コラム⑩

 第3に農場が伝統共同体における「神社」に似た機能をもっていたということである。ムラ(共同体)には必ず神社があり祭りがある。あまりにあたりまえすぎて私たちはそのことの意味を十分には理解していない。神社とはいうなれば自然という神々に通じるための装置であり、神々の降りてくる場所である。神前では毎年神楽が舞われ、そこではムラの創成神話や伝説が物語られた。神がムラの中を行幸し、ミコシが担がれた。それが祭りだ。神社はそこにあるというだけで、人間を超越する何かが存在する、奥深い自然の中に畏敬すべき何物かが存在するということを示していたし、「氏子」として祭りに参加するということは、個を越えた共同体の物語に同化していくということであった。神社(神話、マツリ)がムラをして共同体たらしめているといえるだろう。このように人々が神社の「氏子」になるという形で共同体は立ち上がってくるのである。それゆえ神社は共同体の核であり、最も神聖にして公共の場であった。そのようなものであったから氏子の出資(資産に応じたカンパ)で建設も補修も為されたし、日常管理も氏子の奉仕であった。また氏子として神前では皆平等を原則とした。

 較べるべくもないが、このように考えてくると農場がたまごの会の中で果たしていた機能と似ているところがあることに気付くだろう。たまごの会が農場をもったのはいわばたまたまである。農家との直接取引では納得のいくたまごが入手できなくなったこと、また農場に入ることを宣明する青年たちとの出会いがあったこと、1970年前後の“熱気”がまだ残っていたこと、等々である。それはたまたまではあったが、会員の出資で共同農場を作ってみると、それがモノの生産の場以上のものとして機能しだしたのである。会にとってそこは最も公共性が強い中心となり、会員がその氏子となるような構造ができてしまった。残念ながらそこにカミはいなかったが、山岸式養鶏法や有機農業は農業というよりはむしろ自然と結ぶ方法のように理解されていたから擬似的にではあるがそこは自然という何かに通じている場所とも感じられた。会員にとってそこは個人を越えた公共の場所であり、中心であり、自然あるいは野性が露頭している場所となった。「消費者」でしかありえなかった都市民にとってそれは新しい発見であり驚きだった。そこではまた同じ氏子として職業や年齢、思想や経験等々、実社会のシガラミを脱ぎ捨てて自由に振る舞うことができた。このような「構造」と「場所」は産直関係では持ちえないのであり、そのような意味でこの時たまごの会は、はからずも新しい共同性の地平に進み出たといえよう。たまごの会という「公」、つまり共同体の誕生である。

 集団のサイズのことにも触れておきたい。たまごの会はかってのムラと違い、都市部の市民運動であったから地域性は持ちえなかった。「氏子」は都内各地に散在していたから。彼らを“顔や風景みえる”具体的レベルで結んでいたのは農場という場所と配送車であった。地区世話人は折にふれて氏子たちを農場に「参詣」させていたし、会員の手弁当による配送は農場と生き物たちの織りなす物語の語り部として卵や野菜や肉、牛乳などモノに乗せて会員間の口語的なコミュニケーション回路ともなっていた。そのような仕方で、擬似的にではあるにせよ“風景”と“物語り”を共有していたといえるかもしれない。

 ある集団が共同体として立ち上がってくるにはそのサイズが重要なファクターとなる。あまり大きすぎると“風景”と“物語り”が共有できず、口語的コミュニケーションが成り立たないからである。これもむろん意図していた訳ではないがムラ共同体とたまごの会はその点よく似ていた。ムラは普通50戸前後でひとつの集落を形成するが、たまごの会も(会員数は最大時で300戸を越えていたが)コアなメンバーでいえばやはり50人(戸)前後ではなかったかと思う。語られることはなかったが大事な点ではなかろうか。 S


by kurashilabo | 2014-12-27 10:15 | 鈴木ふみきのコラム