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ふみきコラム 40周年特別コラム⑥

 都市化された生活に出自をもつ(人たちの語る)有機農業ということばには「農の課題」と「農業の課題」が整理されることなく詰め込まれている。1982年の旧たまごの会の「分裂」は誰の目にもよく見える形でそれを実によく表していたと思う。
分裂にたち至った原因は単一ではないが、ベースに「路線問題」があったことは誰も否定しないだろう。共同自給農場を建設して約5年、一段落したところでたまごの会は自己を振り返り、また世に問う形で「たまご革命」を出版し、自費出版として「たまごの会の本」を作り、記録映画(といっていいかどうか)「不安な質問」を発表する。しかしそれは同時に潜在していた「路線問題」を浮上させることにもなった。たまごの会とは何なのか、どこに進むべきなのか。

 「路線」をはっきりと提示したのは後に「契約派」と言われるようになる人たちである。彼らは「農家と組む」ことこそ会の本筋だと考えた。地元の農家に有機農業に転換してもらい、彼らを都市消費者が買い支えることで農業の現場と食卓を結び、農業を変え都市の暮らし変える。農場生産は小さくしていく方向でモデル的有機農業を営み、同時に農家の生産物の集荷配送センターとしての役割に強くしていく。これは「提携」と呼ばれる有機農業運動論の考え方で、当時注目を集めていた山形県の「高畠町有機農業研究会」の活動や京都の「使い捨て時代を考える会」の活動などに刺激されていたのだと思う。そのような眼でみればたまごの会は農場を作りみんなでワイワイ楽しんでいるだけで、それでは別荘農場にすぎないではないか?!というのが彼らの批判である。たまごの会の原点をたどれば、いいたまごを生産している農家さんから安全・安心のたまごを共同購入するというのがスタートであるからこれは会の本流だし最大公約数だったともいえる。

 それに対して「農場派」と言われることになる人々の言うことはわかりにくかった。共通していたのは「それは私たちが魅力を感じていたたまごの会とは違う」ということだけで、では私たち考えているたまごの会とは何なのか、そこがわからない。「作り、運び、食べる」を旗印にしたあのワイワイガヤガヤとした共同自給農場という実践には確かに何かあるのだが、そこがうまく言えないもどかしさ。様々な語られ方をした。「たまごの会は有機農業運動ではなく消費者自給農場運動だ(明峯)」「農場は都市への根拠地(井野)」「私たちの有機農業は農業用語を使った都市についての語り口(鈴木)」「たまごの会は農「業」ではなく農なのだ(?)」等々。
契約派は「農業の課題」という文脈でたまごの会を解釈しその方向に作り変えようとしていたし、農場派はたまごの会に「農の課題」に触れるものを感じとっていたのである。契約派が「農業問題が見えてきた」「農家を変える(啓蒙)」として農民運動を都市消費者が支える方向に運動としての意義(政治)を見ていたのに対し、農場派はむしろ60年代からの西欧的なヒッピームーブメントやコミューン運動と共振して都市住民自身の生き方暮らし方を変える契機としての農という理解で、そこに「新しい政治」の可能性を見ていたという言い方もできる。

 実際の運動過程としてはかようにクリアーに分かれていた訳ではなく、関心の置きどころに濃淡があるだけで、両方のベクトルが混然一体となって不思議なエネルギーを発揮していたのが初期たまごの会であったと思う。それがやむをえなかったか必然だったかはさておき、敢えてする「分裂」がメンバーとその意識をふたつに切り裂いていったのである。分裂後についていえば契約派は「食と農をつなぐこれからの会」を立ち上げ新しいスタートを切ったが、「普通の農家と組む」ことはそうた易いことではなかったようである。農場派は農場を維持していくことはできたものの、それが何なのか、農場を維持することで何をしたいのかという問いには答えを用意できないまま、宇治田農場時代には普通の実業としての有機農場化、あるいは一種の契約農家化していった。いずれにせよ両者ともに魅力と社会的迫力を失うことになったのである。 S


by kurashilabo | 2014-11-29 16:17