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ふみきコラム0927

 たまごの会の分裂「騒動」も一段落し、そうは言っても先はまだ視界不良といった1983年前後の頃だったと思う。つい先日亡くなったA氏と、これも今年亡くなったN氏、区役所の職員をしていたY氏、それと自分で時々私的に会合しあれやこれやのおしゃべりをしていたことがあった。皆もう30代後半で「けっこうなトシになってしまった」という気分があったのだろうか「ミソジ(三十路)の会」と名付けていたが、何か特別な目的があった訳ではない。

 今思い出したのだが、これはおそらく分裂の時「農場派」の中におかれた「理論整理部会」の流れを汲んでの会合だった気がする。「理論整理部会」というのは「農場派とは何か、何をめざすのか」ということをもう少しはっきりことばにしようとして、たまごの会に置かれた部会だった。分裂の渦中、「契約派」の主張はいわゆる有機農業運動路線でそれはポピュラーで誰にもわかり易いものだったが、では「農場派」は何をしたいのかという一番大事なところが一向明確ではなかったのである。そのことが「分裂」をわかりにくいものにしていたし、農場の進むべき方向も定まらなかった。フラストレーションもたまる一方でボクも何やら書きまくっていた記憶がある。今になって考えればそれはそんなに性急に答えのでるものではなかったとはいえるけれども。

 しかし他方当時は「理論」や「正しさ」のもついかがわしさに対する警戒心も強かった。それは70年前後の「政治の季節」を経験したものとして、多くのメンバーが理論や正しさがもたらす悲劇を沢山見たり経験していたからである。そこで理論を「整理する」だけならいいだろう、会に対して理論や方針を提起するのではなく整理するだけなんだからという(実に苦肉な言い訳だが)ことで「理論整理部会」というのはできたのである。どんな活動をしたのかはもう記憶にない。そして分裂騒動が一段落してしまえば緊張感もなくなり自然消滅したのだと思う。(そして最初の約束通り、何の理論も方針も残さなかった)。その流れで気心の知れた4人組(そう確か四人組とも自称していた。むろん当時中国で話題をさらっていた四人組から来ていたのだが)がおしゃべりを続けていたのではないか。

 どんなおしゃべりをしたのかももう忘れた。ひとつだけはっきり憶えているのは「お墓の自給」というテーマでえらく盛り上がり、また笑ったことである。これは区役所の職員だったYが持ち込んだ話題で、彼は職業柄都会のアパートで独り暮らしの老人が孤独死した現場に立ち合うことがあり、その悲惨な経験から「自分の人生を生まれてから何年というだけでなく、死の方から何年と考えることも必要」だとして、お墓の自給(つまりは老後の自給)を持ち出したのである。彼は当時まだまだ保守的だった葬送の世界に対抗した「葬送の自由」という話題やまだ珍しかった「自然葬」の資料などを集め、ボクは「散骨」などということばもその時始めて知ったのである。お墓の話しが何でそんなにおもしろいのかわからなかいが、皆大いに笑って語らった。たまごの会時代のおしゃべりであんなに楽しかったことも笑ったこともない。

 今ボクは性懲りもなく「平成のウバステ山構想」を打ち上げ(コラム0712、0719参照)老後の自給を宣教している最中なのだが、ボクの中ではひょっとしたらあの時の楽しいおしゃべりと笑いがまだ鳴り響いているのかもしれない。
 A氏が普通の葬儀は望まず、散骨を希望したというのを聞いてふとそんなことを思い出した次第である。 S


by kurashilabo | 2014-09-27 11:08