2014年 06月 21日
ふみきコラム0621
それらを承知で運良く借りることができたとしても、事情は都会のアパートやマンションといささか異なる。田舎の“家”というのは単なる住宅ではないからだ。アパートやマンションの場合は先住者の匂いや痕跡はほとんど消されて中性的な“物件”に戻されている(不動産屋による仲介にはそのような意味もあるのだろう)。しかし田舎の空き家はあらゆるものに先住者の息づかいがまだ残ったままなのである。なんと言ったらいいか、家の至るところ、あらゆるものに住んでいた人、亡くなった人の“念”のようなものがこもっている。見るには面白いが、住むには重苦しすぎる。
先日(15日)、農場スタッフの茨木氏の“古い新居”で親しい人たちを呼んでの大宴会(?)が(一品持ち寄り)で催された。重苦しい念を追い払うには大騒ぎしてより力強く若々しい念をそこに吹き込むのが一番だと考えたからである。その家に住人が替わったことを十分に知らしめる必要があったから。そうではあるが、はじめてその家を訪れ見せてもらったのだが、先住者の念はまだまだ強かった。イバ氏は軽トラックで何台分も古いものを処分したというがそれでもまだ。驚いのは鴨居に並ぶ額縁に入った先住者の面々である。中央に際最後まで住んでいたおばあさん(のまだおばあさんになっていない頃の)写真と、先に亡くなった御主人の写真が並んでいる。その左隣りにはその父母の写真がある。その右隣の祖父母の写真はどう見ても明治のものだ。幕末から明治にかけて撮られた古い日本の写真を本で見たことがあるが、そんな印象がある。一番左の、先の戦争で死んだという(先住者の)弟さんの写真はよく見ると作りものである。軍服を着ているのだが、写真なのは顔だけで軍服は絵のようである。その部屋は仏間(まだ仏壇もある)なのである。
イバ氏はよりによってこの部屋を寝室にしているのだという。山裾のハクビシンが天井に住みついているという古い家で、こんな見ず知らずの御先祖に見降ろされながら暗く森閑とした夜を過ごすのにボクなら耐えらそうにない。若い人は生のエネルギーが強いからそんなものは吹き飛ばしてしまうのだろうか。イバ氏も最初は怖かったが慣れたということではあるが。
都会のアパートやマンションはもちろん、多くの建売住宅も要は入れ物にすぎない。しかし田舎の古い家はそれ自体が生き物であり主体なのである。住んでいる当主は、今その家に住んでいるというだけで彼が死んでも家は続いていく。建物としての家と、共同体としてのイエは一体のものとして、先祖とつながりその土地の自然や伝統とつながり、地域の共同体とつながっている。個人とその土地の自然や歴史、共同体とを媒介するものが家なのである。都会的な「安い借家」感覚で借りると戸惑うことも多いはずだ。 S

