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ふみきコラム 谷津田に思いを馳せる②

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 その田がいつどんな風に開拓されたのか、ほとんどの田はわからないしそんなことは誰も気にもとめない。しかし当然ながら田にも歴史がある。江戸時代初期の「大開発時代」に拓かれた田の多くは「○○新田」という地名を残しているし、記録も残っているのでわかり易い。戦国大名の時代のものも調べればある程度推測はつくかもしれない。しかしそれ以前からの田についてはほとんどわからない。まして小さな谷津田の歴史などわかりようもない。

 そうしたなかで「常陸国風土記」の「夜刀の神」の条は谷津田開拓の情景を今に伝えるほとんど唯一の文献である。この農場を建設する時、今まさにボクがこうして書いているその下の土中からいくつかの土器が出土した。映画「不安な質問」に美しく使われたあの土器である。その土器(ツボ)が6~7世紀頃のものであるから、丁度その頃の話しである。(ちなみにこの時期の土器がまとまって出土するのは住居跡といより墳墓であることが多いから、この農場の建物群は墓域に建てたことになるかも。)

 「(継体天皇の時代、つまり6世紀の初めの頃のことである)人有り、箭括氏麻多知(ヤハズノウジマタチ)といふ。郡(コホリ)より西の谷の葦原を献(タテマツ)らんとして、墾闢(ハリ)て新たに田を治(ハ)りき。(以下意訳)この時夜刀の神が大勢の仲間を引き連れてきて、ことごとく妨害して田を作らせなかった。(俗にいう、「蛇を夜刀の神というと。その形蛇の身にして頭につのあり、相群れて住んでいて、時にそれを見る人あれば、家を破滅させ、子孫を残せなくする。この郡の近くには原野が大変多いので、そこに住んでいる」)ここに麻多智、大いに怒り、甲鎧(よろい)を着け、自ら戈(ホコ)をとって打ち殺し、駆逐してしまった。そして山への登り口に境界の標として杭を立て堺の堀を置き、夜刀の神に告げて言うに「ここより上(つまりは山の上)は神の地であることを認めよう。しかしここより下は人の田としたのである。今よりのちは自分が神の祝(ほおり)となって、とこしえに敬い祭ろう。だから願わくば祟らないでくれ、恨まないでくれ。」と言って、社(やしろ)を設けて、初めてそれを祭った。このようにして十町歩あまりを開墾し、麻多智の子孫はそれをうけて必ず祭をし、今に至るまで続いている。」

 ここまでが前半だが、ここだけでもいろいろ想像が膨らむ。箭括氏麻多智とはヤハズというから矢の製作に関わる氏(うじ)集団を束ねる頭領なのであろう。この話しは常陸の国の行方郡(なめかたぐん)の郡家(郡の中心)の近くのことであるが、現在の地図でいえば石岡市から霞ヶ浦の東岸を車で20分ほど潮来方面に下ったあたり、自衛隊の百里基地(茨城空港を併設)の近くである。その辺りは今でこそ明るく開けているがひと昔前までは常磐道(水戸街道)という幹線道路から外れていたために近世近代を通して最も開発の遅れた地域であった。しかし常陸国風土記」の時代はそうではなかった。当時は石岡に常陸の国府があったがそこに至るには霞ヶ浦を上行し、今の高浜駅あたりから石岡方面まで舟で行くというのが幹線であった(おそらく)。当時、関東平野は多摩川、荒川、利根川など大河川が乱流を繰り返し横断は難しかったのである。その当時を偲ぶものとして当の行方郡の霞ケ浦を望む地と、現高浜駅近くに大きな前方後円墳があり、舟からよく見えるように作られている(関西方面の事例と同じように)。そして石岡は西の政権の東方経営の拠点であり、鹿島神宮にも通じていた。かように行方郡は当時の幹線沿いに位置していたのである。

 さて、夜刀の神を蛇のことだと言ってしまえば、この話しはつまらないものとなる。むしろ筑波の山に住んでいたという「土ぐも」などと同じく先住民と解するのが妥当ではなかろうか。西の政権が東進してきた時、むろんそこは無人の地ではなかった。その先住者がどんな者たちなのかはわからない。考古学的にはそれ以前に弥生文化をもった人々の存在があるからその人たちなのであろうか。それとも谷津あるいはヤトがアイヌ語のヤチュからきているということを信じるならアイヌ系に連なる人々かという想像もできる。そんな勝手な想像はおくとしても、ヤトや山には夜刀の神が群れていたのであり、開墾は彼らを打ち払いながら進められたのである。しかし同時に打ち殺し追い払った彼らを敬い祭ることで鎮魂し、共存していたのだということも知ることができる。神社の起源はそんなところにもあったということも。S
by kurashilabo | 2014-03-08 15:00 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)