2013年 09月 08日
ふみきコラム 犬のはなし9/7
このようなぬいぐるみのような犬、小型犬への嗜好の傾斜も犬の部屋飼いと共にある現象だ。部屋飼いでは犬も人となるので犬の犬らしさ、異類性というものが嫌われ、ペット産業がそれに対応した商品を次々提供するようになったのである。農場で飼っているシロは平凡な中型犬だが、夜な夜な遠吠えをする。オオカミを思わせるこのような性質は部屋飼いには不向きであろう。また毛の抜け変わりの時期はあたりは毛だらけとなる。これも困るだろう。発情期には近くのものに見境いなくマウンティングして見苦しい。スキをみては外に出て放浪し帰ってこない。一方一緒に飼っているミニチュアダックスのトマト君は放しておいても農場の敷地から出ることもなく、毛の抜け変わりの時期もなく、いつ発情しているのかわからず、遠吠えもしない。(シロの遠吠えに学んで、最近ではトマト君も一緒にするようになった。様にならない奇妙な声でだが。)そして人と遊ぶのが大好きで、誰にでもなついていき、いじられても平気どころか楽しそうでさえある。部屋飼いのペットとしてはトマト君の方が断然扱い易いのは明らかで、そのように育種改良されているのであろう。
犬はぬいぐるみのようにかわいくて、扱い易ければそれでいいのだろうか。犬はバックやケータイのように、その人に全的に所属する私的所有物なのであろうか。ボクはババという名のメスの黒猫を飼っている。臆病であまり人になつかないが、ボクにはよく馴れていて夜は部屋の手の届くところで寝ている。しかし部屋にいない昼間、彼女がどこでどんなことをしているのか全く分からない。時折ねずみを咥えてきてびっくりさせるが狩りを楽しんでいるのであろうか。彼女はボクの所有物というより、この部屋をシェアしている友だちであり異類である。人間ではない異類(ケモノ)と人間のように暮らすことができる、それが犬猫を飼うおもしろさで、その異類性を失えば動くぬいぐるみにすぎない。その異類性が私たちの生活と感覚を押し拡げ、人と自然を媒介するのである。異類性をあまり削ぎ落とした部屋飼い用の犬種はかわいさや扱い易さと交換に、「飼う」おもしろさが薄くなっているのではないか。偏見かもしれないが(飼ったことがないので)そんな疑問をもっている。(しかし犬が犬である以上、その異類性は消すことはできないから、それはどこかで病的な形で発現していくるはずだ。)
かように一方にひきこもり的一人カルトのような「飼う」を生み(犬猫しか愛することができない人々!)、他方に犬の動くぬいぐるみ化(消費社会に適応して)が進んでいる、そんなことを考えていると、ペット熱の行先も明るいものではない気がする。犬はやはり野にあるべきだ。異類性を嫌悪するところの健全な市民社会ともかかわらず、ペット産業に取り込まれることもなく野を駆け巡ってこそ犬だ。ボクは最近西部劇にハマっているのだが、(西部劇は日本の仁侠モノにそっくり。)そこに出てくる犬たちは幸せそうである。主人公が馬で帰ってくると家から駈け出してくる。やはりそこに人と犬の至福の世界があり原型がある気がする。 S