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ふみきコラム 犬のはなし 7/20

 ボクは農場で「シロ」という名の平凡な中型犬を飼っている。先日何気なくテレビをつけると午前中の中途半端な時間だったからか、「犬の苦情相談」のようなことをやっている。アナウンサーやコメンテーターや調教師やらがガン首揃えてあれこれえらそうなことを言う番組である。また犬のクソの話しだろうと思っていると案の定、犬の苦情でダントツに多いのは犬の糞の放置だという。「ヒマなトシヨリたちがボランティアで空き地の糞の片づけを続けてきたが一向に減らないので、役場と協力して糞の横にイエローカードを置く方法をとったところ、半減した。」などという報告である。「糞の処理は飼主のマナーです」空気を更に濃くしようという魂胆だ。

 ボクはマナーの押し売りはごめんだ。人が犬の後についてクソを拾って歩くなどという滑稽で屈辱的なことはしない。ボクは糞が家の前にあっても気にならないし、散歩中も「フンが怖くて豚が飼えるか」などと誰にともなく文句を言っている。せちがらい世の中である。「江戸名物は犬のクソ」なんて戯言で苦々しく思いながらも笑い飛ばしていた江戸のおおらかさがうらやましい。江戸の街には1町に(約109メートル)5~6匹の街の犬がいたというから相当犬の糞もあったはずだが誰も「犬の糞を片づけるのは飼い主のマナーです」なんてヤボなおせっかいは言わなかった。(言ったかもしれないけど)犬はそういうものなのである。犬がトイレでクソをしたら変だろう。犬のクソが道端にあるのは当たり前のことだった。

 いや、犬のクソはどうでもよい。憂き世を忘れて今「犬の伊勢参り」という愉快な本を読んでいる。(仁科邦男著、平凡社新書) 江戸時代にはしばしば犬が伊勢参りをしたというのである。それも誰かに連れられてというのではなく単独で何百キロも歩いて。犬も伊勢参りするというのは当時の人々の周知の事実であったらしい。その実例(資料)を丹念に拾い集めた本だ。犬が発心して伊勢参り、などということがあろうはずがないと割り切ってしまうのは現代人で、当時の多くの人々はそれを一概に虚説とは思わなかった。それも御伊勢様の御神徳としてそのまま受け入れていたのである。現代人の眼からみればそれは何の不思議もなく、犬の習性として容易に説明できるのだが。要はこういうことである。 

 例えば伊勢参りをしたいのだが事情で(体が悪いとか)行けない人がいたとして、(当時、一生に一度は御伊勢参りをしたいというのは庶民の宿願だった)飼っている犬に「代参」させるようなケースである。首に「○○村某」という木札をつけ、銭をひもに通し首に巻いて送り出すのである。すると街道筋には御伊勢参りの人も沢山いるから誰彼となく世話をやき、その銭で飯を食わせ、またそれ以上の銭を施し村から村へ継ぎ送りされていくのである。お伊勢様のお祓い(お札)をつけてもらえばもう立派なお伊勢参りの犬で、お座敷にあげて食い物を与える人もおり、病気になればカゴで送り、何せお伊勢参りの犬だからそそうがあってはならと村役人があれこれサポートするのである。そのように大勢の善意に支えられて伊勢参りを果たし帰郷するとお伊勢参りをした犬としてたいそう大事にされたという。

 ちなみに村役人(庄屋)のサポートには沢山の資料が残っていて、文化年間の一例を挙げれば次のようなものである。

「覚 一、犬一疋。ただし子連れ。右はこのたび、下筋より継ぎ送り、伊勢参宮の由に御座候。宿々お気をつけなさるべし、しかと存じ奉り候。泊まり所にては、座上にて御寝、小ふとんにても御着させなさるべく候。ただし泊まり所にては、飼料(えさ代)少し御取りなさるるべく候。酉十二月、○○駅。宿々」

 村から村へこのような送り状が書き継がれていくのである。この大の大人がまじめくさってする子供じみた迷妄、未開の精神は別世界のようであり驚くべきことである。世界のどこにこんな人々がいるだろう。これをどう考えたらいいのだろう。しかしこれが明治直前の私たちの精神世界だった。

 しかも犬の伊勢参りだけでもびっくりなのに豚の伊勢参りもあったというから仰天する。その話はまた来週。 S
by kurashilabo | 2013-07-20 15:56 | 鈴木ふみきのコラム