たまごの会のはなし③

 有機農業運動といわれるものが、生産者と消費者の提携という形を基本とすることで(必然的に)有機農業を「もうひとつの農業、もうひとつの経済」という枠に回収していくもだとすれば、たまごの会(農場派)は自ら「作り、運び、食べる」を旗印とすることで有機農業が開いた“贈与ワールド”をそのまま都市の暮らしの中に持ち込もうとしたといえるでしょう。共同自給農場も運営上の様々な仕組みもそのための装置ということができるかもしれません。その結果として、たまごの会は普通の市民運動の枠を越えてひとつのコミュニティを形成しつつあったと思います。半ば意識的、半ば結果としてそうなっていたということではありますが、それはたまごの会の隠されたもうひとつの目的であったともいえます。そこをどう見るか、おもしろさと可能性ととるか、運動のちょっとしたオマケとしてみるか、そこにも農場派と契約派のセンスの違いがありました。
 
 今になって考えると、たまごの会はよく出来たコミュニティだったと思います。それは伝統的共同体(ムラ)と較べるとよくわかります。まず第一に、共同体には必ず神社(鎮守)がありますが、神社とはいうなれば人々が自然という神々とつながるための装置です。神社を勧請(かんじょう)し、皆がその氏子となることではじめてムラを立ち上げることができました。(その逆ではありません)。そのようなものとして神社は全メンバーの(立場に応じた)出資と出労(ボランティア)によって建設され、維持されていました。その結果として神社の前では皆平等でした。共同体の形成にはその中心にこのような垂直的装置が必要です。たまごの会では農場が神社として機能していたといえるでしょう。農場は会員の(立場に応じた)出資と出労で建設されたものですし、また農場で営まれている有機農業(有畜複合農業)は農「業」というより「農」(自然に開かれた回路)として感受されていました。その結果として、農場という場ではフリーターもサラリーマンも役人も教授も主婦もみな平等に振るまうことができ、日常の硬い衣を脱いで自由になれたのです。

 第2に、集団のサイズです。ムラ(集落)は一般に50戸前後を単位としています。その程度が日常の暮らしの中では目に見え、付き合える範囲ということでしょう。たまごの会は最大で会員は300戸強でしたが、活動を担う中心的な人数はやはりその程度ではなかったかと思います。コミュニティは大きすぎず、小さすぎずということが大事です。

 第3にたまごの会は唯一の決定と執行機関である「世話人会」(各地区世話人の連合)によって運営されていましたが、世話人会というのは組織ではありません。たまごの会に普通の意味での組織運営はありませんでした(事務局が議案を提起したり、多数決で決めたり、年次総会で承認したりという手続きの)。「やりたいこと」とその実行意志のある世話人「個人」の連合が世話人会です(それぞれに組を構えるヤクザの組長が集まって、杯をまわしながら「ここは一発やろうじゃねえか」と次の出入りの段取りを相談するシーンを想像するとよい。筋も通り、ドスも効いた発言で場をとりしきる組長もいれば「いや、ワシはまだ腹が決まらねぇ」と腕組みして首をかしげる組長もいる訳です。そういう時「じゃ、多数決でいきましょう」とは言えません。多数決は相手を黙らせるためのケンカの作法で、コミュニティの運営には向きません。内部バトルになってしまいますから。)世話人会方式は組織運営というよりもむしろ一揆を組む時のやり方です。経常的な形としてはムラの「寄り合い」に近いものだと思います。そのような意味で、日本の伝統に連なる形ではあるのです。コミュニティにはいわゆる民主主義的な組織運営と違うスタイルが必要です。 

 その他にもいくつか挙げることはできますが、ここで言いたいのはその類似性ではありません。有機農業運動があくまで問題を農業と食べ物の問題、あるいは生産者と消費者の提携の問題として捉えていたのに対して、「作り、運び、食べる」のたまごの会(農場派)は有機農業をコミュニティ論に接続させようとしていたのではないかということです。その方向で暮らしを変え、自分を変える、そういうことだったと思います。そこに社会変革の新しい水路を見出そうとしていたのではないでしょうか。

 そしてコミュニティとしてのたまごの会のユニークさは、なんと言っても都市(都市中心部)と田舎(都市周縁部)という2つの軸足を持っていたということです。別の言い方をすると在家(会員、世話人)と出家(農場スタッフ)が相互に刺激を与えあいながらつながったということです。そこに尽きぬ面白さと可能性があったし、同時にそれは難題でもあったのです。 S
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by kurashilabo | 2013-04-13 15:46 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)