たまごの会のはなし②

 このような筋道で考えてくると農場(たまごの会八郷農場)の意味、かっての大分裂の核心的な問い、「農場とは何か」に対する答えもなんとか言葉になるのではないでしょうか。

 農場はなんといっても安全で納得できる卵や野菜や肉を求めて建設された訳ですが、当然ながらそれはいわゆる有機農業、あるいは有畜複合農業という形をとりました。有機農業とは(有畜複合農業といおうと自然農法といおうと同じ)近代農業の中で窒息しかかっている贈与のレベル(動物を飼ったり植物を育てたり、その成果をありがたくいただいたりする一連の営みのもつおもしろさや豊饒性)を回復しようという意志に貫かれた農業です。それは動物や植物を単なるモノとしてみる経済としての農業の側面を否定するものではありませんが、いわゆる近代農業のように経済としてのみ農業を考え、効率と量的拡大こそ農業の発達だとする圧倒的な潮流に対するささやかな抵抗でした。食べ物の安全性の問題も、家畜たちの不幸も、農地の荒廃も、農家の跡取りがいないことでさえ、明治以来の近代農学と、1960年代以降全面展開した近代化農業が、農業の贈与のレベルを語る言葉をもたず、ほとんど無意識に切り捨ててきた結果です。

 有機農業は自然(土)の持つ萌え出ずる生命力、再生力に開かれ、それに依存し、それを取り込もうとする農業です。私たちは農法の未熟さによって、あるいはまた自然に向き合う作法の未開拓ゆえに(年中行事など)、未だに十分にはそのおもしろさ、豊饒さを引き出せていないかもしれません。しかし農業のおもしろさも、農場のある種の明朗性や華やぎも、突き詰めれば皆そこからやってくるのです。たまごの会は都市民を主体とした運動でしたが、共同自給農場をもつことでそのおもしろさに触れてしまったのです。農場は彼らにとって“最高の遊び”でした。農場はいってみれば人生を賭けた遊び場であったともいえるし、あるいは農業のもつ豊饒性を都市に還流させるための装置であったと言ってもいいでしょう。個人に即していえば、過剰な交換的世界でやせ細った自らの心身に自然性を回復させるための場所だったといえるかもしれません。

 むろんそのためには様々な仕掛けがたまごの会にはありました。第一に農場スタッフと都市会員が同じ立場で農場運営を担っていたことです。実際の生産活動のほとんどは農場スタッフでしたが、運営上は何をどう飼い、あるいは作付するかまで都市会員主体でした。第二に生産された卵や野菜は会員と農場スタッフの2人組によって(毎週メンバーが変わる)自主配送されていました。彼らが各地区をめぐり、農場と都市(地区)を結び付けるメッセンジャーとして機能したこと、これは大変大きかったと思います。 第三に生産物にいわゆる値段はつけませんでした。品代はありましたが、それは会員間の不公平を避けるためのもので、いわゆる価格ではありません。生み出されたものが“商品”になることを周到に回避していた訳です。 第四に農場スタッフに給料のようなものはありませんでした。必要なものは共同の財布から出費し、あとは少々のおこずかいだけというものです。それは農場の諸活動が通常の“労働”ではないということを意味していました。

 こうしたことを挙げていけば他にも色々あるでしょう。要は「作り、運び、食べる」を旗印として、農場で生み出された「モノ」が沢山のナマの情報を持ったまま(交換価値に堕することなく)食卓まで届くよう周到に仕組まれていたということです。それを担う人もまたすべてボランティア(手弁当)でした。別の言い方をすればたまごの会は有機農業の引き出した“贈与ワールド”をそのまま都市に送り込み、それを“教材”に暮らしを変え、自分を変え、人生を変えていこうと意図していたと言えますが、そのためには農場や会の運営もまた贈与の原理であることを必要としていたのです。

 その仕組みがうまく機能したかどうか、負の面は何か、長く続けるにはその原理だけでは無理なのではないか、等々言い出せばキリがありませんが、それはここでの主題ではありません。 S
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by kurashilabo | 2013-04-06 15:44 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)