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たまごの会のはなし①

 ややローカルな話になりますが、かってのたまごの会(暮らしの実験室の前身)の残したものに「不安な質問」という少し謎めいたタイトルの記録映画があります。ドキュメンタリー作家松川八洲雄氏の手によるものです。先日(といってもかなり前ですが)久しぶりに若い人たちと一緒にまた観ました。もう30年以上前の映画ですからみんな若い。現在65歳であれば35歳です。(当たり前ですが)。みんなキラキラと輝いていました。ボク自身は撮影の末尾に居合わせた農場スタッフ第2世代ですから登場しませんが、どの顔も知っていて懐かしくはありました。しかしどう言ったらいいか、相変わらずよくわからない、というか、いやわかりすぎるくらいよくわかるのですが・・・。映画が撮られた当時、すでに農場の共同生活は大変息苦しいものになっていたし、たまごの会自体も分裂含みだったからかもしれません。当時のスタッフでこの映画を素直に楽しめる人はいないのではないでしょうか。これはウソではないがホントでもないと。

 しかしこれを書きながらあれこれ考えていて、不意に腑に落ちるものがありました。松川氏はここでいっている言葉を使えば“贈与のレベル”を撮ろうとしたのではないかと。破綻しつつある共同生活、分裂含みのたまごの会の運営、そうしたバイアスを通しても尚あふれ出てくるある種の華やぎ。自ら(共同で)動物を飼い、植物を育て、それを運び、自ら皆で食べるという、共同自給という行為のなかにあふれ出てくる“贈与ワールド”。それに触れた時の驚きと華やぎ。交換的世界に慣れ親しんだ都市民が長らく忘れていた根本の明朗性、肯定性。そういうものを記録にとどめようとしたのではないかと思ったのです。そういう意味で「不安な質問」は単なるたまごの会の記録映画であることを越えて、ひとつの映像作品として仕上がっているということなのでしょう。そういう眼で見ると、たまごの会の“大分裂”(1980~82年)もまた違って見えてくるのではないでしょうか。(今更誰も関心なさそうですが)。

 分裂の一方は“契約派”と呼ばれ、他方は“農場派”と呼ばれましたが、あの分裂劇をわかりにくくしていたのはひとえに「“農場派”とは何か、何を目指すのか」が最後まで言葉にならなかったからです。様々に語られはしましたが「農場大事」と言うばかりでこれぞというものがなかった。それに比べて“契約派”の論理は大変わかり易いものでした。「地域の農家に慣行農法(近代農業)から有機農業へ転換してもらい、それを消費者が買い支える。農場はモデル的に有機農業を営むことはあるにせよ、そのための足場」というものでした。それは有機農業運動論をたまごの会に当てはめたものでした。農家(生産者)と消費者という関係を前提にし、あくまで問題を農業と食べ物の問題としてとらえるという立場です。しかしその論理ではたまごの会の(少なくとも共同自給農場という実践の)おもしろみ、深さは全く語れないというのが農場派のこだわったところでした。消費者はあくまで消費者、生産者は生産者という立場を越えることのない有機農業運動論では共同自給という実践の中で私たちが確かにこの眼で見、体で触れた“贈与ワールド”の面白さは語れない、都市民がはじめてそこに触れたということ、そこでの身体性と自然性を回復する快感、それこそがたまごの会のたまごの会たるゆえんであり、根源性なんだというのがおそらく彼らが感じていたことなのです。

 それは文明史的なテーマで、問題のレベルが違うのです。しかしそれをうまく語る言葉を時代はまだ用意できていませんでした。まだ“冷戦構造”の生きている時代でしたし。「別荘農場」とか「おあそび」とか「何のための農場なのか」などなど飛んでくる矢に対して「農場は大事」「農業ではなく農なんだ」「都市こそが問題」等々と言うのが精一杯だったのです。ひとり松川氏だけがそこを映像ですくいとっていたのかもしれません。 S

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映画「不安な質問」の一場面
by kurashilabo | 2013-03-29 15:42 | 鈴木ふみきのコラム