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ふみきコラム3月22日

 では、卵や野菜がどのようにして私たちのもとにもたらされるかというと、「恵みとして」と言う他ありません。それはどこからかプレゼントとしてやってくる。地上は光にあふれ、大地はうるおい、緑が繁り、生命の力に満ち溢れています。お米も卵も肉もその力が生み出し、それに属しています。そのひとかけらです。それをありがたくいただいているとしか言いようがありません。人はただの動物であった時代から「他の生き物を食っきた」し、そうして生きていくしかありません。確かに農業は人為として、彼らがよりよく育つ環境を用意し、生き物のもつ潜在的増殖性を解放して、最も効率よくそれを手に入れようとしますが、できるのはそれだけで、一片の肉も一粒の米も「生産」しているわけではありません。どこまでいっても「飼ったり」「育てたり」しているだけです。狩猟や採集で手に入れるか、「飼ったり、育てたり」して手に入れるかの違いだけです。農業だからといって、鶏や豚や野菜が人間の所有物になり、それを殺して食べてよい「権利」が生まれるなどということはありません。それはプレゼントとしてやってくる、それをありがたくいただいている、そう考えるしかないし、事実としてそうなのです。

 むろんのこと農業にははじめから目的があり「卵を得るためにニワトリを飼う」という言い方をします。そこで卵という目的と飼うという行為と因果で結びづけているのは経済で、その経済が農業という場を作っているのは言うまでもありません。それは人間の理性、合理性の為すところで、その論理の中ではニワトリも野菜も操作対象として「モノ」として扱われます。農業がそもそも野蛮である所以です。 

 しかし元来この経済はより大きな土台、あふれる緑の力、生命の海の上に浮かぶ小さな船のような経済です。それが実態です。ところがいつの頃からかその土台は忘却され、経済の面だけが農業として語られるようになりました。それはそう遠い昔のことではありません。長めにみても近代以降です。農業が生産・作物・家畜・圃場・統計・効率、コスト等々という近代的な言葉で語られるようになってからだと思います。不思議なものでそういう言葉で考えると経済としての農業しか見えなくなる。そこには言葉の詐術のようなものがあるのだけれど反論するのは難しい。そこで「近代農学」の果たした役割は小さくありません。昔の「野良稼ぎ」とか「豊年万作」などという言葉にはまだ農業がもっと広い世界で営まれていた時代の空気が残っている気がします。それはともかく1960年代以降の近代農業はその方向で純化をと遂げ、経済の論理一色になりました。農業者も研究者も経済しか語らず、土台について口にすればそれはただの郷愁として冷笑され、文学や民俗学の世界になってしまった。

 しかしここで言いたいのはそのことではありません。経済としての農業に慣れすぎたために、あるいは労働とか商品交換の論理に囚われているために現在ではほとんど見えなくなってはいるけれども、農業の土台は大きな贈与の論理できているということです。「飼う、育てる」も贈与であり、「生産物」もまた贈与としてもたらされます。その贈与のレベルにおいてこそニワトリも豚も野菜も、人と自然を媒介するものとして立ち現れる。彼らが生き物として、また食べ物として人と自然を媒介することによって人は自らの自然性、根本の明朗性を保償されている、そういうことではないかと思います。かってそれは言葉で語るまでもなく当たり前だったけれど、今では言葉で語ってもわかりにくいものになってしまいましたが。

 私たちが農業に関心をもったり、そこに暮らしの原風景を感じたりするのはその点においてではないかと思います。そこに現代ではすっかり失われてしまったけれど、未来を開く何かがあると直感しているのでしょう。農という営みが現代に対してもつ意味と言ってもいいかもしれません。それはいわゆる農業問題とは違うレベルの話です。ま、気の遠くなるような話ではありますが。S
by kurashilabo | 2013-03-23 13:56 | 鈴木ふみきのコラム