2013年 01月 26日
ふみきコラム 1月25日
いまひとつ注意しなければいけないのは当の大人もまた「屠畜」ということに何の倫理的態度をもちあわせていないということです。宗教的であれ何であれ、ひとつのコスモロジーの中で屠畜に対する倫理が確立しているのであれば、それは屠畜する場の構成や屠畜の仕方、屠畜する人の態度に表れるはずで、それが解釈を規制します。おそらく伝統的社会ではそのような仕方で「屠畜」という行為が潜在的にはらむ危険性を封じ込めていたのだと思います。私たちにはそのようなものがありません。屠畜が野放図に社会に開放されるのは危険なことです。それは「必要に応じて動物を殺してもよい」というメッセージだからです。そして人間精神にあっては「これは人で、これは人ではない」というのは必ずしも生物学的ではありません。極端な例で言うと、その昔(16世紀前後?)オーストラリア南部タスマニア人は海を越えてやってきた西欧人によって絶滅されられましたが、彼らは動物を屠るように面白半分に殺しまくったということです。彼らにとってタスマニア島原住民は人ではなかったからです。逆の意味で極端な例は江戸時代、元禄の頃(将軍綱吉治世)後に「生類憐みの令」と呼ばれるようになる法令がいくつか出されました。これは犬や猫などの動物を虐待したり殺したりするのを禁じたものですが、そこには動物愛護の精神を涵養することで殺戮が開放されていた戦国時代の遺風を一層したいという意図が込められていました。「動物を殺してはいけない」というメッセージを出すことで「人を殺す」気風をなくそうとしたのです。かように「屠畜」と「屠人」に本質的な意味で境目はありません。境目を作っているのは宗教であったり、文明であったり、常識であったり、要は文化です。子どもはまだ文化という衣を十分に身につけていません。このような意味でボクは鶏や豚の屠畜を小中学生に見せることに今は必ずしも賛成ではありません。隠す必要もまたないと思っていますが。
Sさんが触れている「人を殺してみたかった」的殺人と「鶏を殺すところをみたい」という小学生の相関については、そう思ってしまう気持ちはわかりますが関係ない気がします。そのような事件の背景ないし彼らを駆り立てたものが何であるかについて論評することはできませんが(難しすぎて)、印象だけで言えば、むしろ子ども時代に十分生き物を殺していないからだともいえるかもしれません。ボクなりの言い方をすれば個人史の中で定住革命を経ていないということです。小学生から中学生の始めの頃までの子どもはまだ狩猟採集的で、生き物を捕まえたり殺すことに熱中することがあります。子どもは殺すことに存外平気です。自分の子ども時代を思い起こしても、眉をしかめたくなるような、今ではとてもできないことを平気でやっていました。(ザリガニを釣るのにカエルを捕まえてき叩き殺し、足から皮をむいてひもに縛りつけ、それを石でつぶして釣るとか。ちなみにこれはボクの発明ではなくみんながやっていたことです。念の為。)自然という教室で生き物をつかまえたり殺したり飼ったりしながら子どもは定住革命をクリアしていくのだと思います。それは言葉としては記憶されていませんが、身体的記憶としてその人の基礎を作っているのではないか、そんな風に考えています。現代の人は不幸にしてそういう環境に育ちません。小学校時代からゲームやネットですから。「人を殺してみたかった」的殺人はそういう時代の現象です。歴史が消え、自然が消えた世界で人はまともに育ちうるかというのは人類未踏の問題です。「3丁目の夕日」の世界の話しではありません。(失礼ながらSさんや?)ボクのような昭和の頭ではわかる訳がないのです。むろん屠畜がどうのこうのというレベルの問題でもありません。 S