人気ブログランキング |

ふみきコラム1013

 「農か農業か」などという話題は全く“業界内”の話題で、一般には何のことやらさっぱりおもしろくもない話しに違いない。しかしこれは農場をやっていくうえでも、新規就農者としても避けて通ることができず、どこかで整理しておかなければならないテーマで、もう少しお付き合い願いたい。(むろん付き合わなくてもいいですが)先回、文明批評として、あるいは都市生活者の生き方の問題として「農」が呼び出されていると書いたが、そういう意味でいえば何ら目新しいことではなく、近くでいえば1960年代から70年代のヒッピームーブメントやコミューン運動がそうであったし、もっと遡れば大正時代の「新しき村」運動もそうだし、近代の超克という言い方をすれば明治以降連綿と語られてきたテーマであるだろう。
 そしてこういうことは、どれもうまくいかなかった何も残さなかったけれども、だから失敗だったという性質のものではない。あとから考えれば失敗を宿命づけられていたとはいえるが、その時ギリギリ考え、決断し、実行したのであるからすでにその時点で一つの役割を果たしていたのであり、正しかったのである。もしそれを失敗と言えば歴史は累々たる失敗と敗者のゴミ溜めでしかなく、成功者・勝者の単線で表層の歴史でしかなくなる。多くの人が様々な可能性に挑み、ひとつひとつのことを見極めているからこそ、歴史は厚みがあるのではないか。

 あ、いやそういう話ではなかった。近代批評とか近代の超克とかいう場合、それはどういうことなのであろうか。そんなことがありうるのだろうか。現代に生まれ、現代に生きているのだから私たちは現代人以外ではありえない。江戸時代を文化人類学者のごとく歩きまわることはできても江戸時代の人にはなれない。定住革命や農業革命を復習し、ネイティブアメリカンやアイヌのスピリットに学ぶことはできても、それは「学ぶ」を越えない。しかしそれは「学」にとどまるとはいえ、その学により現代を俯瞰し、それを相対化して生きることはできるだろう。それは大事な第一歩である。次に暮らしの中に近代(現代)を相対化する場所、領域を作ることはできるかもしれない。“飼うこと”“耕すこと(植物を育てる)”がその核になるとボクは思う。飼う、育てるは贈与性をその本質としており(以前どこかで言ったように)、自然との関係、動物や植物との関係においてたとえ小さくとも贈与的領域を作りだせばそれは増殖して人と人との関係にまで拡がっていくはずだ。
 また、農業や暮らしの中に儀礼や年中行事を取り込むことも考えていいのではないか。それらは中味のないマネッコと嘲うことはできるが、儀礼や年中行事は「型」であり、型は昔の人たちの身体化された智恵だ。型を整えればその型のもっている感情や意味が次第に染み出してくるのではなかろうか。神々はいるのではなく、いるとして振る舞ううちに、つまりは行為的に出現するものだが、それと同じである。そんなことを積み重ねていけば、近代(現代)人でありながら前かつ超近代をも同時に生きることができるのかもしれない。ほんの少しは。

 「新しき村」もヒッピームーブメントも、まるごと近代を飛び出ようとしたものだが、そのような“革命”はロマンだがやはり無理というものだ。現代の農的志向に何か新しいものがあるとすればそのあたりの“あたりまえの智恵”を身につけたということか。そうであったらいいのだが。ちなみに「新しき村」は老化したかもしれないが現在も続いているし、ヒッピームーブメントの色を強くもっていたたまごの会初期農場もかように変形しつつも続いている。共に初期投資のパワ―とレベルの高さゆえであり、少々の驚きを禁じえない。創設者たちに敬意を表すべきであろう。 S
by kurashilabo | 2012-10-14 11:52 | 鈴木ふみきのコラム