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ふみきコラム0929

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7月以来まとまった雨はほとんどなかったのに、よりによって先の23日(日)は本降りの一日となった。降り続ける雨の中、旧八郷町の筑波山に抱かれたような旧小学校(朝日里山学校)で“八豊祭”(ハッポーサイではなくヤッホーマツリと読むらしい)なるイベントがあった。しかも野外で。こんな日に人が来るのかな、と心配していたのにあにはからんや傘さして大勢の人が集い、忘れ難いイベントとなった。(大勢といっても200~300人かな)

八豊祭はやさと農場ないし、暮らしの実験室のイベントではなく、ボク自身は全くかかわってこなかったが、9組の音楽バンドが出演するというので楽しみにしていた。(農場や暮らしの実験室とは組織的には関係ないというのは形式で、実際はスタッフや少なからぬ会員がイベントメンバーだったし、ミーティングや準備も農場でやっていたのだから関わりないとはとても言えない)その音楽バンドも予想していたよりずっとレベルが高く、プロとして皆を楽しませてくれた。

それにしても軽くテントが張ってあるとはいえ、吹き込んでくる雨で楽器がぬれるのを拭きふきの演奏で、バンドのメンバーには申し訳ないようでした。しかも聞けば交通費だけで手弁当だとか。(それでいいのか?!)。あ、いやそういうことは関わっていないボクが言うことではない。ボク自身は音楽祭+出店で楽しい一日を過ごさせてもらいました。イベントとしては大成功だったのではないか。

それはいいのだが、配られたチラシに「僕たちが未来へつないでいきたい八つの豊かさ」という宣言文のようなものがあって、これが何度読んでも意味がつかめない、これは意味づけの方向が違うのではないか。何もかかわっていない人間がケチをつけるとすればこの辺りかなぁと思うので言うのだが。地域とか豊かさをテーマにしているようだが、ボクは八郷に本当の豊かさがあるなどと実感したことはないし、ムラや地域などというものは昨日今日ノコノコやってきた新住民が、何やらチャラチャラしたことを言って何がどうなるものでもないし。あれは新住民(ヨソモン)のアソビだし、それでいいのではないか。むろんムラの人が遊びに来てくれればもっと楽しいけれど。

新住民、もっと狭く言えば都会から移住して農村で農業のごときことを始めた人々はある種の空虚感を抱えている。皆、そこに都市生活にない豊かさがあると思って田舎暮らしを始めるのだが、田舎暮らしだから、農業だからということでそこにはじめから何か豊かさのようなものがある訳ではない。多くの就農した人たち(特に有機農業の)を見てきて、本当に豊かそうだな、ああなりたいな、と思うような暮らしに出会ったことはほとんどない。自分自身も就農して長くなるが、ボクたちの田舎暮らし、農業には何か決定的に欠けているものがあるような気がずっとしてきた。それがうまく説明できなかったのだけれども、次のような言い方ができるかもしれない。 

農業はその昔から(基礎単位は家でありながら)共同体的ないし“ムラ”の中で営まれてきた(北海道は例外)。農業が共同体的という意味は単に水利の共同、土地の共同、あるいは“むらの仕事”としての出労(共同作業)等々という目にみえる理由だけではない。むしろそこでは個人(農家)ごとに営農や暮らしがあるように見えながら、その個は同時にその個を超えた意味レベルを生きている、暮らしているということなのだ。そしてその意味レベルはむらの神社やお寺、祭り、葬送儀礼、伝説や迷信、あれやこれやの年中行事等で具体的で目にみえるものになっていて、それがそのまま山や川や大地へと連なっている。

彼らの営農はかようなコスモロジーの中にあって、そのコスモロジーは悠久の過去のにまで根を下ろしている。彼らは個々に暮らしているように見えながら、同時に共同体とそのコスモロジーを生きているのである。むろんその共同体的世界がここ数十年でゆらぎ、弱まり、過去のものとなったということは否定しないけれども。(だからだろうか、ムラは経済的には豊かであるように見えながら、さびれた印象があるのは。) 

他方、ボクたち新農民は個を越えた共同性、個を意味づけ土地や風景へと連なるコスモロジーなるものをその始めから欠いている。それぞれがそれぞれに土地というキャンパスに思い思いの絵を描いている。農家の農業は壮大な叙事詩だとすれば、ボクらの農業は私小説にすぎない。その私小説空間をいかに豊かに飾ろうと、本当のおもしろさ豊かさはないのではないか、おそらく。その空虚感が“地域”などという幻想を呼び込む。

さて、ここから先は難問である。ボクらの農業にどのように共同性の意味レベルを持ちこむのか、あるいは創りだすのか。遊びとか儀礼、年中行事などの言葉にヒントがある気がするが、とりあえずは問題の所在を言うくらいしかできない。八豊祭も地域とか豊かさとか、そんな訳のわからない言葉に迷い込むのではなく、新しい共同性に向かう(かもしれない)「アソビバ」、音楽祭+出店でいいし、それで十分楽しいと思うのである。
by kurashilabo | 2012-09-29 14:33 | 鈴木ふみきのコラム