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ふみきコラム0922

暑い暑いと言っているあいだに農場のまわりの田はすっかり稲刈りがすんで、稲株からはヒコバエが伸び、もう秋の景色である。8月の終わりごろにコンバインがうなりはじめ、ほんの2週間くらいで大方の稲をかりあげてしまう。あっという間である。最新のコンバインの能力はすごいもので、軽く駆け足するくらいの早さで刈り取っていく。刈り取りながら脱穀し、もみがたまると道に控えているもみ運搬車にザーと移し、3反や5反を30分か小一時間できれいにしてしまう。何の色気も無いが、それはそれで小気味よく、見事なものである。

昔、たまごの会が始まって間もない頃は、農業近代化とはいってもまだ稲刈りは各農家ごとにバインダーで刈り取り(バインダーだってすごい能力なのだ)、ハザ掛けし、ハーベスターで脱穀するのが主流だったから稲刈りの時は夫婦や一家で田に出て、まだ昔のにぎわいをみせていたが、今はそういう風景もない。また、各農家ごとに米つくりをしていた頃は(今は各集落ごとに一軒くらいはあるライスセンターを営む農家が大半を請け負っている)、コシヒカリがすでに中心だったとはいえ、ニホンバレ等他の品種も多く、作り方も農家ごとに微妙に違うので、同じ稲でも田ごとに少しずつ違い、雨風で倒伏したりする田もしばしばみられた。今は品種も作り方も統一され、その分全面倒伏して機機械が入らないなどということはほとんど見られなくなった。当地方のコシヒカリは新潟コシヒカリに次いで評価が高いのだが、そのブランドはこのようにして作られていて、個々の農家の技能や創意工夫が出る幕は少ない。

さて、農業近代化の掛け声の下で機械化一貫生産を押し進めてきた日本の稲作はもう行き着くところまで行き着いたという気がする。しかしこれもまた農業なのだろうか。農業という言葉で呼んでいいものかどうか。ここで仕事をしているのは機械であって人ではない。むろん田植え前後の水管理や土手草刈り、除草剤散布程度のことは人がするが、それは機械ができないところを補助しているだけで、理想をいえばそれもしないで済めばそれに越したことはないのである。人が耕したり、育てたり、飼ったりすることで稲や動物や自然と向き合っている訳ではない。「耕す」「育てる」「飼う」という行為がそこになければそこでお米やお肉が生産されていてもボクはそれを農業とは言わない。「工場的」生産は農業ではない。

森を倒し、大地を切り裂き、種をまいて生物に内在する増殖性をコントロールしてそこから富を引き出す。農業は農業である以上、必ずこの荒々しさ、目的意識、人間特有の合理精神に貫かれている。農業が農業としてたちあがってくる時には必ずそこに経済がある。しかしそれはいわば自然、生命という大地母神の世界に加えられた男性原理であって、その合体によってそこに自然でもあり人間文化でもあるという新しい空間が地上に生み出される。それが農業という空間の基本原理だ。農業が経済だと知りつつもそこに自然や母性的なもの、あるいは文化を感じるのもそれゆえだ。農業が人と自然を媒介するというのもそういうことである。それはずっと当たり前のことだったのだが、市場経済と高度化した科学技術(機械化、化学化)の力で加速度をつけ「工場化」した現代の農業にはもうそれはない。有機農業といわれるものも、いってみればその失われた世界、自然や生命のもつ女性性と、経済や合理精神という男性性の合体によって出現する新しい、豊穣な空間を取り戻したいという願望なのである。そういうことでいえば「農か農業か」という例の立問はさして意味がないのかもしれない。
by kurashilabo | 2012-09-22 14:30 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)