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ふみきコラム 家畜の断章(2)

「飼う」という行為を純粋贈与と考えると、「家畜」と呼ばれている動物たちの飼育はどうなのであろうか。
この問題にはしばしば触れているがなかなかやっかいなのである。おそらく「家畜を飼う」という言い方自体が本当はおかしいのだ。「家畜」というのは経済のことばである。卵であれ食肉であれ、それを得る目的で手許におく動物を家畜と呼んでおり、それは経済である。そこでは飼育という労働があり、卵や肉という生産物がある。これは工業生産の論理である。あるいは飼育というgive(贈与)があり、卵や肉というtake(お返し)があると身勝手に考える事もできるかもしれない。しかしこれも交換の論理で経済である。

一方、「飼う」は経済用語ではない。家畜と名付けようと目の前にいるのは生身の、自分と変ることのない生き物で、彼らを飼うことに於て犬や猫と本質的違いがある訳ではない。家畜用の飼い方などというものはない。飼うは飼うでしかなく、よりよく飼おうとすれば純粋贈与となっていく。そこで飼育者は困る訳である。「家畜」ということば、つまり経済の論理でいこうとすれば彼らを「経済動物」と呼んで、生身の生き物とは考えないようにするしかない(大半の畜産家は実際にそうしている)。しかし残念ながら経済動物などという動物はいない。その強弁の極北に近代畜産という狂気が現れる。

一方、「飼う」にのめり込んでいく人は次第に畜産から逸れていく。この農場の場合、3分の1位の動物たちはすでに畜産ではない。それはコスト感覚がないからではなく、素人なりに、いや素人だから飼おうとしてしまうのである。畜産家としてはナイーヴ(幼稚)にすぎる訳である。これはこれでまた奇妙なものとなる。この両方が矛盾なく成り立つ論理はこの論理立ての中にはたぶんない。そこでそれはペンディングにして別の方面から考えるしかない。おそらくそこには「家畜化論の貧困」という原因があるのだ。(だんだん理屈っぽくなって恐縮です)S
by kurashilabo | 2010-10-30 15:04 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)