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ふみきコラム 家畜の断章(1)

僕は今、この農場で「シロ」という犬と「ババ」という猫を飼っている。
むろん食用ではなくペットである。猫はともかく犬は大変だ。暑かろうと寒かろうと、雨の日も風の日も、疲れ果てて腰が痛い日も風邪気味でも散歩に連れ出さなければならない。日常がほとんど自然ばっかりなので今更自然にふれたいなどということは全然なく、それはほとんど苦行である。

この苦行を続けてきて最近僕はハタと悟ったのだ。菩提樹の下ではなく川の土堤で。シロがクソをたれるのをながめながら。「ペットというのはひたすらの贈与なのだ」と。純粋贈与というのは相手が人の場合は現実にはありえない。相手に負債感を与え、何かしらの『お返し』を陰に強制することになるからだ。しかし犬や猫は何ら負債感をもたないし、『お返し』など考えない。シロが「腰が痛いのならおもみしましょうか」という事もないし。ババが時々枕元に持ってくるネズミもお返しではないだろう(たぶん)。そしておそらく純粋贈与という精神と行為がその人自身を救済するのだ。ペットが癒しになるというのはたぶんそういうことだ。

また不思議な事に、「かわいい(いとおしく思う)」という感情、相手との一体感のようなものもこの純粋贈与の精神と行為とともに発生し深まる。幼児(ことばを解する以前の)と母親の関係を考えるとわかり易いかもしれない。そこにあるのは母親のひたすらの贈与であり、いとおしさと一体感である。「お返し」は普通そこでは期待されない。(ちなみに育児と飼育は行為としてみた場合同じである。似ているのではなく。)だが子どもとはいえ人間なので、ことばを解するようになると純粋贈与とはいかなくなる。小憎らしくなる、いやかわいさの質が変わっていく。だが相手が動物の場合はいつまでも幼児でいてくれる。成長ということがない。そこがありがたいところである。(つまらないところでもあるのだが)私たちは(とりわけ現代人は)人や動物、植物、あらゆるものから引き離されたさみしい存在だ。散文化した世界でどこまでも孤立している。アニミズムからはるかに遠い。そういうなかで、ひたすらの純粋贈与だけが私たちをアニミズム的一体の世界に近づけてくれるのではなかろうか。動物を飼ったり植物を育てたりするということはつまるところそういうことだと思う。では相手が「家畜」と呼ばれる動物たちの場合はどうなのであろうか。その話はまた。S
by kurashilabo | 2010-10-24 14:57