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ふみきコラム 家畜の断章(6)

再びここでテキストとしている「逝きし世の面影」に戻る。
幕末・明治に来日した多くの欧米人が一致して書き残しているのは当時の日本人の底抜けの陽気さと幸福感あふれる表情である。

「(街頭風景をみて)ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群集の間でこれほど目につくことはない。・・・西洋の都会の群集によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全くみられない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児に至るまで彼ら群集は満ち足りている。」
「日本人ほど愉快になり易い人種はほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑いはじめたとなると、理由もなく笑い続けるのである。」
「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。」「彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快でない好奇心、自分で楽しんだり人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした。一方、婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。さらに通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され、“おはよう”と気持ちの良い挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けたものだった。」等々。

これが坂本竜馬が走りまわり、新撰組が人を斬りまくっていた時代の民衆の表情なのである。こうした報告がどれだけ当時の事実を反映しているか(歴史資料としての価値)や、歴史教育でどうしてこういうことが抜けているのか等々の検討はテキストに譲る。ここでの私の関心は、どうして彼らはそんなに陽気でありえたのか、ということである。その陽気さ、明朗さ、幸福感の由来である(むろん悲惨がない現実などないからそれを含み込んだ陽気さということだが)。つまり私(たち)が失ったものの由来。沢山の理由を挙げることができるだろう。
長く戦乱がなかったこと。衣食住が基本的に満たされていたこと。近代人を悩ましてきた進歩・発展という強迫観念、すなわち楽しみを常に未来に先送りしてしまう思考と生活の習慣が弱かったこと。共同体社会であり身分社会であったから「自分さがし」などというやっかいなことはなかったこと。人との関係に於ても自然との関係に於ても「共同体的であれば」今日と同じように明日やっては来ると信じられたこと等々。
しかし私としてはその根底に、犬や猫や鶏が、わがもの顔で人々のまわりをうろついている風景があり、馬頭観音や化け猫や犬神が現に生きている世界があったということ。身近な動物たちと、ちょっと変わってはいるが“同類”としてつき合い、殺すことを考えない人たちだった、ということがあるのではないかと言いたいのである。
そしてその心性は「日本人は大変子ぼんのうで、叩くことをめったにしない」「子供は甘やかされていて、日本は子供の楽園」などとこれまた外国人を一様に驚かせた心性と一連のものである。そのような精神風土があってこその明朗さ、陽気さだったのではないか。

それを論証することはできないが、少なくともたぶん無関係ではない。明朗さというものは贈与の精神と行為の中から立ちあがるものであるし、その純粋な形はそういうレベルで働いていると思うからだ。むろんそのような精神は未開のものである。“成熟した未開”ともいうべきものだ。そのような世界からは近代はたちあがらない。近代はやはり欧米からやってくるしかなかった。それはそうだがしかし、近代が行きつくところまで行ったかに見える現代から見返すと、それはまた違った意味を持って迫ってくる。S
by kurashilabo | 2011-01-23 14:30 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)