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ふみきコラム 家畜の断章(8)

明治になって、家畜ということばが作られ、制度としての畜産が始まったことで起きたもうひとつの事態は、私たちの動物や自然との関係がダブルスタンダードになってしまったということである。
日本の畜産は明治以前の日本の農業の内的展開として成立してきたものではない。「畜産業」として、考え方・技術・品種等や肉食のススメまで一切合切がセットとして、官主導で移植されることで始まった。日本に内発的に畜産が成立する条件は全く無かった。

まず第一に当時、基本的に必要な食料は十分に生産されており、栄養面で特に畜産物を必要としていなかった。第二に畜産が本格的に成立するには家畜用の餌が必要になるが、耕地はすでに人間用に利用し尽くされており、また山野も薪炭林や田畑の肥料として利用されていて、家畜用に草地や耕地を用意するなど考えられなかった。(未開拓だった北海道は例外。その後、日本が大陸に進出したり、外国から餌を輸入できる態勢ができてから畜産は本格的に発展した。)第三に、これまでのべてきたように、身近な動物を「家畜」として扱う心性はなかったし、「殺して肉を食う」など考えるだに恐ろしい鬼畜の所業だったのである。

このような文化的、農業的風土に畜産は成立しようがない。かように畜産が江戸時代的農業や心性の上に“のっかる”形ではじまったということは、近代日本人の心性を屈折したものにしたのではなかろうか。「殺して肉を食ってはならない」を原理とする心性、ないしコスモロジーと、「殺して肉を食ってもよい」という原理と経済を、ひとつの社会が、つまりは一人の個人が、抱え込む事になったのである。このダブルスタンダードを私たちは適宜使い分けてきた。しかしこれでは統一したコスモロジーは成立しないし、根本の倫理も成立しないのではなかろうか?ことばが意味と力をもてないのではないか?

例えば教室で先生が生徒に“命の大切さ”を説く場面を想定してみよう。その言葉はおそらく生徒には届かない。彼らはそれが偽善だということを、あらかじめ知っている。日々の食事や給食に沢山のお肉が使われているのだから。人間の命は大切だが、犬や牛の命は大切ではない、(場合によっては犬の命は大切だが牛の命は大切ではない)ということを説得的に説くのは存外むずかしい。ヒューマニズム(人間中心主義)の観点からいえば、豚の命など塩と同じ程度のもの、肉が腐らないためにあるのだと確信をもって言える先生は、たぶん少ない。ましてや牛や豚も殺してはならない。給食はまちがっている。命を大切にするとはそういうことなのだと説く先生は、たぶんもっと少ない。更に、私たちの生きている世間はそのように無論理、無倫理でできていて、その場その時の情緒でやっていくしかないのだよ、と正しく言える先生は、たぶんもっともっと少ない。

私たちは畜産物は十分に享受しながら、動物を殺して肉を食うことは本当は良くないことだということを、未だに、心身のどこかで知っている。何かおかしいと思いつづけている。だから社会もメディアも畜産の現場を見て見ぬふりをし、本質論は避け続けている。そこには暗黙の了解がある。畜産はこれだけ巨大化し、身近になりながら、実は未だに私生児のままなのである。S

*前回の当コラム、3行目「畜産というカテゴリー…」は「畜生というカテゴリー」の誤り、28行目「別の文明、世界風景…」は「別の文明世界、風景、意味文脈」の誤りです。訂正します)
by kurashilabo | 2011-02-05 14:23 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)