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ふみきコラム 家畜の断章(12)

今日一般に流通している畜産物の99%以上は近代畜産(工場畜産)によるものだ。その近代畜産のなんたるかについて書こうとして途方に暮れている。とてもここではできない。しかし簡単に言えば簡単なことなのでそれで済ましたい。

明治以前の日本に家畜はいなかったと以前書いたが、実は現代日本にも家畜はいないのである。一千万もの豚がいて、億を越える鶏はいるが、彼らは家畜ではない。家畜でさえない。どんな形であるにせよ、家畜はdomesticなものであり、人間との関係に於て家畜なのである。近代畜産にあっては彼らは「工場的な」存在であり、畜産物という生産物の製造ラインに置かれている原料にすぎない。人もまたその生産ラインの一つの歯車のようにルーティンワークをこなしているだけだ。ひとつのシステムが稼動しており、そのシステムが擬似的に「飼育」している。人が「飼う」という行為に於て彼らと相対している訳ではない。
飼い主がいない。鶏は人との関係に於て鶏となり、豚もまた人との関係に於て豚であるということからいえば、彼らは鶏でさえなく豚でさえない。確かにそこに生身の鶏や豚がいるのに飼われることもなく「モノ」として扱われている光景は実に不気味で不快なものだ。

家畜であれ野生動物であれ、彼らと接する時、私たちは自分の中にある情動がたちあがるのを経験する。かわいいとか、こわいとか、触りたいとか、キモイとか、エサをやりたいとか。その時私たちは一瞬、鶏になったり豚になったりしているのではなかろうか。それが普通だし動物のおもしろさだ。しかし畜産工場の動物たちは「産業動物」であり、モノなので、そのような接し方は御法度なのである。動物を単なるモノとして扱う事に私たちはまだ不慣れであり、未経験である。そしてその不快さ、不気味さは屠畜場でも同様に経験する。ラインに沿ってシステマティックに処理されていく何百頭もの豚。その不快さはおそらく屠畜という行為自体からくるのではない。生身の動物である豚が、ルーティンワークとして、システマティックに扱われていることが不快なのである。

屠畜は元来、死という激しい自然を媒介として、自分の身体という自然、野性としての自然と人間が生身で向き合う場であった。祝祭的な場で、生身の人間が、生身の動物とそのように向き合う光景はおそらく不快なものではない。屠畜とはそのようなものであったとすれば、システムが擬似的に屠畜している現代には屠畜さえないのである。このような意味でいえば、近代畜産にあっては「飼う」も「屠畜」もなく、畜産物の大量生産システムが動いているだけだ。動物たちが何かを媒介するということもなく、「暮らし」もなく、「農」業もない。単なる動物虐待のシステムであり、名付けることのできない狂気がある。人類はかってこんな背徳的なことをしただろうか。将来の歴史家はこれを「20世紀後半に一つの狂気が出現した」と記述するのではなかろうか。S
by kurashilabo | 2011-03-05 14:07