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ふみきコラム0317

3・11はかように農業者としての自分に多くの難題を残したが、そうした直接的で現実的な問題を離れれば、震災とは私にとって日々新聞や雑誌で見る写真だった。黒々とうち重なる瓦礫、半ば崩壊した原子力発電所、つながれたまま餓死した牛、それは何かとんでもないことを確かに写しとっているのに、そこにことばが無かった。日常のことばはそこに届かないように思われた。そして結局、私はこれは現代文明の陰画なのだと考えたのだった。現代が露出したのだと。

膨大な量の瓦礫は近代とは要するにこの物量であったのかと思われた。飼い慣らしたと思っていた原子力も野性のまま野に放てばこういうものだということを教えた。つながれたまま、あるいは閉じ込められたまま餓死し、放置され、腐っていった牛や豚や鶏は、そのまま「ケージ的なるもの」に押し込められている現代の家畜たちの悲惨を語って余りあるだろう。そしてこの震災が2011年に起きたことの意味を考えた。もしこれが50年前の1960年頃に起きたならば、全く別の語られ方をしたはずだ。文明史的反省など話題にもならず、復興復旧だけが問題になっただろう。

私は震災前からすでにこうした映像を頭の中で見ていたのではないか。何もかもが過剰で、こんな生活はどこかおかしく長く続くはずがないというそこはかとない疑念。そうした頭の中のモヤモヤとしたものが、突然クリアな画像となり、いまやほとんどの日本人が(日本人だけではないだろう)共有するものになってしまった。地質学的なタイムスパンで考えれば、地球のほんのちょっとした身震いが、私たちの日常を一瞬にして相対化してしまった。永遠に続くかと思われたこの世界の枠組みにも終わりはある。見えたならば終わらせることができる。昨日まではわずかな思想家たちの論考、あるいは凡人の妄想だったものが、今日は多くの人が共有するリアルな政治課題となった。どんな政治かはこれから様々に語られていくことになるだろう。10年か50年か100年かかるかわからないけれども。今言えるのは、それはあの映像に言葉を与え、鎮魂していくものでなければならないということだけだ。私たちは歴史の大きな曲がり角を曲がりはじめてしまった、すでに違う時代を生きている、そんな気がするのである。
by kurashilabo | 2012-03-17 09:31