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ふみきコラム0303

農場横の強湿田を「溜池」に改造することにした。

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人の暮らしの場には水辺が必要だ。それは湧水でもいいし、小さな川でもいいし、大きな池でもいい。水道があれば水には困らないが、あれはH2Oで水辺とはいえない。公園にある噴水のようなものも、あれはただの水辺の模型で水辺ではない。水が生きてこそ水辺だ。水藻の湧いた田の水を一滴、顕微鏡でのぞいたことがある。肉眼でもよく見ると微小な虫がしきりにうごめいているのが見える。それを50倍で見ると、それはもう別世界のように幻想的で、形も動きも様々な虫が激しく動き回っている。よく見ていると、ゾウリムシもいればアメーバのようなものもいて、いろいろ。それを150倍にしてみると、その小さい虫の周りにもっと小さな虫がモヨモヨとうごめいている。150倍には150倍の世界がある。500倍にすればバクテリアも見えてくるだろう。一滴の水の中に別世界が重層している。それが生きた水だ。生命揺籃の水だ。その虫をミジンコが食い、ミジンコを水生昆虫や魚が食い、水辺に寄ってくる虫をカエルが食っている。ヒトは陸生の大型哺乳類なので普段は気にもとめないが、そこには陸上とは違う生命世界がある。そんな生きた水が満々とたたえられているのを池というのであり、池は緑が深く静かで、それでいて何かが潜んでいる気配がある。生きた水の流れる川は濁っていても清浄で、水生昆虫や魚やカエルで満ちあふれている。

かつてはそのような生きた水辺が生活圏の至るところにあった。ボクはそういう水とたわむれて育ったので、水が涸れてくると心も涸れてくる。そしてとるに足らない水路の、ちょっとした水たまりにザリガニがモゾモゾと動いているのにもつい見入ってしまう。今では田舎にさえ水辺といえるほどのものはほとんどない。遠い昔、中学生の頃だったか、地域の田に一斉にパラチオンが撒かれ、赤い三角の旗がたち、「水に入ったり、触ってはいけない」と告げられた。自分史を振り返るとその頃からなのだ、魚やカエルが減りはじめたのは。むろん原因は農薬だけではなく、合成洗剤の普及もあるだろう。また、水を農業用水という“役に立つ”ものとしか考えないその後の圃場整備事業や河川改修も大きい。農場の前には小倉川というりっぱな川(農業用水)があって、30年ほど前はまだ浅瀬もあり淵もあり、多少の魚と砂底にはしじみなどもかろうじて残り、川の面影をまだ残していた。その小倉川も今では三面コンクリの、ただの農業用水になってしまった。現在では田舎のほとんどの川はそのようにして絶えてしまった。

私たちはどうしてそんな馬鹿なことをしてきたのだろう。どうして自分の住む世界をお金をかけてかくも貧困にしてきたのだろう。それが農業の近代化だ、生産性の向上だ、市場経済だといえばその通りなのだが(だからオルタナティブの有機農業で・・・)その前に、そこに露出しているどうしようもない哲学の貧困、明治以来の近代農学の浅さ、農業原論の不在をこそ深く考えてみるべきではなかろうか。残りの人生で何が一番の望みかと問われれば、昔の、あの生き物であふれかえる水辺を取り戻したい、心底そう思う。S
by kurashilabo | 2012-03-03 17:24 | 鈴木ふみきのコラム