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ふみきコラム1113

 とある人から「3.11以降の有機農業について」と問われてハタと返答に詰まってしまった。しかし…、それ以前・以後と区別するような本質的な違いはそこにはないのではないか。自分の農業も去年と何ら変わるところはないし。土や水や空気や光を米や野菜やお肉に変えるのが農業だからそこが汚染されたらもうどうしようもない。それは大問題だがしかし、それは有機農業に限った事ではなく、普通の農業もそうだし漁業だってそうだろう。生産物が売りにくくなった、消費者を失ったというのも有機農業に限った事ではない。ただ有機農業の関係者は皆、安全性という事にこだわりをもってやってきたらかその問題はよりシビアーにでるということはあるだろうけれども。

 昔、チェルノブイリ原発事故の時、「これからは化学肥料の方が安全という事になるのかねぇ」などと冗談半分に話し合った事があった。今回はそれが冗談ではなくなったという事だろう。山の落ち葉をさらって堆肥を作り、それで畑を肥沃にするというのは有機農業の基本だが、今それをやれば山を除染し、その廃棄物を畑に投入している事になってしまう。笑い話ではない。本当にそうなのだ。茨城県内各地で捕獲したイノシシを調べたところ、複数の地点で規制値(500bq/kg)越え、(900bq位)その中には土浦近辺のイノシシも含まれている。本来は一番清浄なはずの山の幸で生きているイノシシがそれだけ汚染されているという現実がある。それを知れば落ち葉をさらって畑へ、などと気楽に言っていられない。かように安全という事だけ考えれば「できるだけ自然のものは使わないでいこう」ということになってしまう。とんでもない事だがそれは事実で、そこだけを見れば「有機農業は終わった」という結論しか出てこない。

 農業はむろん農産物の生産と販売(流通)を目的に営まれていて、そこでは安全性は品質の重要なファクターだ。しかしそれは農業の<経済>というレベルの話だ。それが農業の全てではない。農業は単に<経済>であるだけでなく、人と自然の関わりのあり方の一つの形である。文明史的な見方をすればそうなる。狩猟採集の旧石器時代までは人はダイレクトに自然と向き合っていた。いや人自体が自然そのものであったから人と自然という言い方自体がそこにはなかった。動物としてのヒトだった。しかし新石器時代(農業革命以後)になると、自然そのものとしての野性は背後に隠れ、栽培植物や家畜、田や畑、住居(小屋)等々という<家畜化された>者たちと暮らすようになる。彼ら(それら)は自然からやってきた者として半分はあちらの世界に属しているが、家畜化された者として人間(人為)世界の住人でもある。そのような両義性(媒介性)をもつ者(モノ)たちと共棲し、その中で暮すようになったのが農業社会である。そのような暮しの中で私たちはヒトから人間になってきた(イノシシが豚になったように)。農業を経済としてではなく、文明史的にみればそうなる。そして今日、農業が都市住民の間で話題になる時、ほとんどが経済としての農業ではなく、農業の持っている<人と自然を媒介する>という機能についてなのである。それは60年代以降の農業の近代化の追程で、農業が本来持っていた<媒介する>という農業を農たらしめていた根本が失われてしまった、あるいはひどく貧弱になってしまったからだ。媒介性の回復を主たる動機(目的)にする農業を一般には有機農業と呼んでいる。

 3.11以降、「安全な」という売り方はしにくくなったということはあるが、放射能が降ったからといって媒介性の回復という本質に変わりはないのである。むしろ「安全」という観念によりかかっていたものが崩れ、より本質的な力量が問われるようになったということであろうか。しかしそんなことを言っていられるのも「茨城はまだ汚染がこの程度」だからで、福島にいれば、あるいは浪江町の住民であったなならばおのずと答えは変わってくる。そこは災害の無慈悲なところである。」
by kurashilabo | 2011-11-13 09:47 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)