2011年 10月 06日
ふみきコラム1006
これは浜岡原発に近い(30km圏)焼津市長の発言だ。(3日朝日新聞)何気ない発言のようではあるが、普通、自治体の首長は「住民の安全を考えれば」とか「安全が担保されるまで」とかいう言い方をする事が多いので、これは印象に残った。発言が新聞の通りだとすれば、これは一人の人間の思考と態度表明であり、安全対策がどうの、住民の意向がどうのという曖昧さがない。
焼津は浜岡原発の立地自治体ではないから法的拘束力は無いが、首長のこのような発言には小さな感動がある。焼津はビキニ環礁で被曝した第5福竜丸の母港であったから、その記憶が呼び出されているのかもしれない。(私事になるが私の生家も30km圏に入っていて、原発のある御前崎には海水浴等で何回かいった記憶がある。当時は何もないさびれた砂浜と、岬に灯台があるばかりだった。今はホテルなどもあるという。)自分の事を振り返ると、原発は危険だとはたぶん知ってはいたが、分かっていなかった。なぜ、どういう理由で核は危険なのかという事を突き詰めて考えてこなかった。「核」とは何か、これはおそらく我々凡人にはイメージできないものなのだ。
作家で物理学徒の池澤夏樹氏が次のように言っている。「…この地球の上で起こっている現象が原子のレベルでの質量とエネルギーのやりとりに由来するのに対して、原子力はその一つ下の原子核と素粒子にかかわるものだ…この二つの世界の違いはあまりに根源的で説明しがたい。“何か上手い比喩がないか?”とぼくの中の詩人は問うが、“ないね”とぼくの中の物理の徒はすげなく応える。“原子炉の燃料”というのはただのアナロジーであって、実際には“炉”や“燃”など火偏の字を使うのさえ見当違いなのだ。」そして、原子の一つ下の核と素粒子にかかわる運動は(核分裂とか核融合)地上ではなく、太陽や地球深部のマントルなどで起こっている宇宙レベルの物質とエネルギーのあり方なのだ。
生命は太古の水の中で発生し、光合成という驚くべき能力をもつ細菌を生み出し、オゾン層を作り、植物となり、土を作り、森を作りして今日まで40億年近くを過してきた。生物は生存する事によって、よりよい生存環境を自己形成してきた。厳しい宇宙的環境から隔離された、その穏やかな生命圏に我々の祖先は生まれた。そこには「ある」というだけで危険なものは存在せず、物を燃やせば灰になり、灰は植物に取り込まれ、植物は死して土となり…というように全ての物質は循環している。それは宇宙的にみれば極めて特殊で奇跡的な空間だ。私たちはそういう世界の住人なので、感覚も思考もそれを超えることができない。脳も身体も生命圏仕様なのだ。
それゆえ核にかかわる話は具体的イメージを伴わない。それは「あの星は3万光年の距離にある」と言われて具体的にイメージできないのと似ている。「核」は生命圏の生物にとって全くの異物である。出すエネルギーも途方もないが危険もまた途方もなく未知のものである。そのような存在、圧倒的エネルギーと計り知れない危険を潜在させた宇宙的異物が、海水浴場の隣の海岸にポンと置かれ、日常の風景の中に収まっている。その本当の姿を凡人はイメージできないから安心して日頃その存在を忘れていられるのであり(ウランを燃やして発電しているのネ、などとトンチンカンなことしか考えない)、原発関係者は原理的危険をよく知っているから安全安全と言うのであろう。そして私たちが放射能に過敏に反応しがちなのは、そこに凶々しさそのもの、私たちの世界にとっての異物性を本能的に嗅ぎ取っているからかもしれない。もしそうだとすれば、それは生物としてまっとうな反応ということもできよう。「核は人間にはコントロールできないもの」という言い方も原発を知る人には承服できないだろう。理論的にも技術的にもそれはとっくにクリアーされている事で、原発はその前提にたっているのだから。しかしそれは具体論ではなく、原理的な直感と思考なのである。

