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ふみきコラム 20キロ圏内というサンクチュアリ

ヒンシュクを承知でいうのだが、こんなことでもなかったら私たちは牛の、このような雄姿を眼にする事はできなかっただろう。サンクチュアリ、そんなことばが口をついてでる。少し愉快である。いや、かなり楽しい。
「牧草地のように」草の伸びた小学校の校庭を疾駆する一群の牛の写真を見ているのである(9月4日、朝日)。

津波や原発事故は、それがゆるぐことのない現実だと思ってきた私たちの日常を引き裂いて、普段見ることのできない多くの光景、現象の裏に張り付いている本質を様々な形で私たちに見せてきた。(そのことで、3.11と呼ばれる時代区分となった)これもまたその一つといえるだろう。

ボクは時として、家畜と呼ばれている動物たちを、その「ケージ的なるもの」から解き放ちたいと妄想する。しかしむろんそれは妄想にとどまる。しかし人が逃げ去ったフクシマの避難区域ではそれができたのだ。むろん多くの牛や豚やニワトリが閉じ込められたまま捨てられ、餓死して腐っていったのは知っている。(その悲惨が報道される事は、おそらく意図的に少ない)しかし逃がした人もいたのだ。

福島第一で「爆発的事象」が続いていた頃、万が一この農場から避難せざるを得ない場合、トリや豚やヤギをどうするか考えた。「エサと水をまとめて与えておけばとりあえず一週間くらいはもたせられるだろう、(水の方が問題。不断給水の設備はないので)それ以上になる場合は解放するしかないが、近くに水とエサがあるという状況にしておけば、それがある間は農場から遠くへ行くことはないだろう」というのが内心での判断だった。ただし解放してしまう選択肢は地域の人たちも避難するという状況にならなければ実行するのは難しい。結局、そこまでいくことはなく、いざという時の大きな水入れなどを用意しただけで済んだのだが。(で、残念ながら?豚がトン走し、ニワトリが空を舞う姿も見る事ができなかった)あの牛たちは幸運だったのだろうか。

先日書いたように、1ヶ月出荷が遅れただけで「立っていられない」「突然死する」ような人生?を送っている大多数の牛にくらべれば、幸福な牛たちといえるだろう。草だけ食ってスリムになって体は軽いだろうし、幸いセシウムが蓄積しているはずだからステーキにして食おうという人もいないだろうし。それが動物の解放だと言いたい訳ではない。しかし「食べられる」ことをされなくなった牛や豚やトリたちのサンクチュアリ、そういう場所がどこかにあっていいと思う。作りたい。私たちは日ごろ豚とかニワトリとか気軽に言うけれども、実は豚とかニワトリなどという動物はいない。そういう生物種はない。イノシシや赤色野鶏と人との共生型をそう呼び習わしているだけだ。そのサンクチュアリで彼らはその本来の姿を開示し、人が日ごろ何を食べているのか身をもって私たちに示すだろう。それはまた、人類史の(反省的)復習として、人と動物たちの関係のあり方を問いかけてくるに違いない。あの牛たちは福島の冬を越せないだろう。その前に「行政的に」処分されることになるのだろうか。許されるものならば、行って、餌を与えて生き延びさせたいものである。
by kurashilabo | 2011-09-10 16:29 | 鈴木ふみきのコラム