2011年 08月 13日
断捨離
「断捨離」は、やましたひでこさんがヨガの「断行」・「捨行」・「離行」を応用した生活術であるが、これは現代版「パパラギ」実践術にもなるんじゃないかな。
しかし、ブームサイクルが早い昨今、「断捨離」もまた一時のブームになってしまうのは非常にもったいない。そうならないために「中庸」というものを心がけたい。ダンシャリアンの中には、コンビニやスーパーを冷蔵庫や納戸がわりにする人がいるというが、これは危険である。お店にモノがあるという前提で暮らすのは、無保険ということだ。
だから今回の震災で、流通が滞るとすぐパニックなる。なぜあることが当たり前で、なくなることを考えないのか。ネガティブ心配野郎の僕は、すぐトラブルを想像してしまうのだが。だって、今また当たり前に電気がきてるから、テレビも電気も使えるけど、今使わないからといって懐中電灯を捨てたり、古臭いといってラジオを捨てるのは、合理的でもなんでもない。使っていないから捨てる、スペースをとりすぎるから捨てる、というのはあまりにも短絡的すぎやしないか。
なんちゃってダンシャリアンからすれば、やさと農場にある積まれた古い飼料袋も、やさと農場に関わってきた方々が置いていった古本も、今使っていないからゴミという扱いになってしまう。先輩方々が置いていった古本の価値は、外野の人間には決してはかれないものがあろう。
コレクターとしても知られる森永卓郎氏が、ガラクタによって縁がうまれ、発想がうまれるといったように、個々のガラクタの価値というのを尊重したい。皆が皆、極端にモノをなくし、スッキリスマートな生活をした場合、個々の個性が薄くなる。(モノが無いから皆、無趣味ということで)ガラクタにアートを見出す人間の性(カラスやキツネもお宝集めはするが)というのをやはり大事にしたい。
やさと農場の価値を(ガラクタを含め)守りつつ、溜まったゴミを出し、新鮮な空気が入ればと思っている。
小松