2011年 04月 23日
ふみきコラム 311以後③
退避の説得を拒んで残った人たち、それぞれの弁(みな高齢者だが)。
「丁度あの時はお彼岸前だったんだよねぇ。うちのお店は130年も140年も続いていてご先祖様が大勢いて、位牌がいっぱいある。毎日焼香しないといけないでしょう。これまでご先祖様のお陰でやってこれたからねぇ…。放射能よりご先祖様だねぇ…。」
「…(退避すると)毎晩5時半くらいからの晩酌ができなくなっと嫌だなと思ってたんだけど…(説得に来た)副議長さんに“焼酎あるか”って聞いたら…(ここには)米も味噌も野菜もあるし、お水もキレイだし…息子も“俺はこの家からあの世に行くんだ”と答えたらわかってくれたみたいだな。」
「…うちには猫が5匹、犬が1匹います。この面倒は誰がみるの?(じいちゃんは難病で薬飲んでいるんで避難所に連れていった。それで安心だけど)犬猫はそうはいかない。で、近所の犬や猫の面倒もみてるし、おじの家の子牛の世話もしているんだ…。」
そう語る人の写真をながめていると、つい「ホントにそうだよなぁ」と合槌を打ちたくなる。ホッとする。暮らしというのはそういうものではなかろうか。それぞれに失うことのできない大事なものがあり、放射能がどうあれその価値と共にいるという選択。避難して得る「安全」と、失うものの大きさを比べれば彼らの選択はきわめて妥当なものだ(と私は思う)。
人は独立した個としてそこに実在している訳ではない。肉体に於いても、自己としても。その家屋敷・土・動物や植物・風景・ご先祖・伝統・諸々の人間関係・・・そうしたトータルな関係、その結び目に個は現象してくるにすぎない。そのような「場所」から引きはがせば、個は解体するかもしれないと、もう少し怖れてみてもいいのではあるまいか。とりわけ田舎に住む人は、とりわけ高齢者は。津波で何から何まで失って、やむなくする避難と、原発20k圏からの避難は全く違う。原発避難の場合は何もかも全てあるのである。そこからの避難は「するか、しないか」という選択が可能である。居残るリスクと避難しての損失をはかりにかけることができる。新聞報道によれば新法を作って20k圏は封鎖するのだという。
新しい法律ができると居残る人を強制的に退去させることができるようになるらしい。これは許しがたい人権侵害である。避難区域を定め、避難を勧めるというのは行政の仕事である。しかし「する・しない」という最終判断は個々が深く思いをめぐらして決めることである。行政はそこまで介入してはならない。放射能など、言ってみればたかが放射能にすぎないのだから。S

